朝のコーヒーと未処理ファイル
午前八時四十五分。いつも通りサトウさんが一番乗りで事務所に来て、静かに電気ポットを操作していた。ぼくが来るころには、湯気の立つコーヒーが机の隅に置かれていて、無言の圧力とともに一日の始まりを告げる。 机の上には「要確認」と書かれたファイルの山。やれやれ、、、今日も処理が山積みだ。
期限切れの登記申請書
その中に、妙に古びた申請書が一枚混じっていた。日付は十年前、申請人は女性の名前、添付書類にはカラーコピーされた委任状。なぜ今になってこの書類が回ってきたのか、謎だった。 記録には存在せず、提出もされていない。これではまるで、幽霊書類だ。 サザエさん一家なら、波平が「なんじゃこれは!」と怒鳴って終わる場面だが、こちとら怒鳴る相手もいない。
サトウさんの目線が止まった場所
「この委任状、ファイル名がちょっと不自然ですね」 静かにサトウさんが指摘した。 その目線は、申請書のファイル名「satou2025love.txt」に止まっていた。どこかで見覚えのある文言。いや、これはまさか。
不意の依頼人と古い封筒
昼前、ひとりの女性が訪ねてきた。名乗った名前は、あの委任状と一致した。 彼女は静かに「昔、こちらに書類を預けたことがあると思うのですが……」と口にした。 封筒の中身は、色褪せた数枚の手紙と、一枚の未使用の委任状だった。
十年前の日付の委任状
その日付に、ぼくは小さく息を呑んだ。 ちょうどサトウさんが入所した頃と同じだった。どうやらこの依頼は、何らかの事情で封印されたまま、データだけが奇跡的に残っていたらしい。 恋の保存期限が過ぎたことを知らせるように。
書類に挟まれた違和感
手紙の中には、「あなたが彼に渡してくれたら嬉しいです」と記されたメモがあった。誰かに宛てた、片想いの告白。封筒の表には、見慣れた筆跡で「シンドウ様」と書かれていた。 、、、やれやれ。
片想いとファイル管理システム
ぼくは、こっそりとサトウさんのパソコンを覗いた。彼女の了承なしに勝手に操作したらコンプライアンス違反なのはわかっている。 でも、心の奥がざわついた。もしそこに「その恋」のデータがあるなら、それは証拠になるのか、ただの思い出なのか。
恋文フォルダの存在
探し当てたフォルダの名は「shindofile」。中には、PDF変換された数枚の画像データがあり、その一枚に見覚えがあった。 あの古い委任状と同じ筆跡。同じ名前。そして、最後の行に、こう記されていた。 「いつか伝えられなかった気持ちが、あなたの役に立つなら、それでいいんです」
誰が保存し 誰が削除するのか
ぼくは思った。 人の気持ちも、登記情報のように有効期限があるのだろうか。消去して良いのか、永久保存なのか、誰が決める? 法律にも、恋にも保存義務なんて存在しない。だけど誰かが残してしまう。だから、残るんだ。
登録免許税と未練の値段
その委任状に記された目的は、所有権移転だった。だが、対象の土地はすでに第三者に売却されており、使えないものだった。 未練が残る恋のように、手続きできない。 登録免許税すら納められなかった恋。それでも、確かに存在した。
金額のミスか 意図的か
書類には明らかな誤記があった。登録免許税が「0円」となっていたのだ。 素人のミスではなく、明らかに何かの意図。誰かに使わせないための、恋のブレーキだったのかもしれない。 サトウさんは何も言わなかった。ただ、書類を静かに閉じただけだった。
サトウさんの指摘が冴えわたる
「これは、法的に効力ありませんね」 それだけを言って、サトウさんはコピー機の前に戻った。 その背中が、いつもより少しだけ遠く感じた。
恋と法務の境界線
事務所で扱う書類の多くには、誰かの感情が紛れ込んでいる。 相続、離婚、売買、そして委任。そのすべてに、誰かの未練や決意が滲む。 でもぼくらは、それを数字に直し、印鑑を押して、処理していく。
感情と職務は分けるべきか
司法書士という仕事は、感情を持ち込まないことが求められる。 でも、持ち込まれた感情に気づいてしまったら、それを無視することが職務なのか。 その判断が、今日はとても難しかった。
司法書士の中立とは何か
システムに残った片想いの痕跡。 それを処理することは、中立なのか、冷酷なのか。 ぼくにはわからなかった。ただ一つわかるのは、保存された想いには、確かに意味があったということだけだ。
サザエさん方式の恋愛観
どこかで「いつまでも変わらない関係」が続くと信じていた。 サザエさんのように、時が止まっているかのように、日常が繰り返されると思っていた。 でも現実は、保存期間が切れたとき、何かが終わる。
一方通行が続く日常
サトウさんの片想いが、十年前に始まっていたとしたら。 それは、ぼくの何気ない一言や仕草で壊れてしまったかもしれない。 気づかない優しさほど、罪深いものはない。
やれやれ昔の俺かよ
ぼくは笑ってファイルを閉じた。 やれやれ、、、恋されていたのが、昔の自分だったとは。 今のぼくに恋する人なんて、いるわけがない。
依頼人の正体とサトウさんの決断
女性依頼人は、最後にこう言った。「彼女に、この書類は渡さなくていいんです。見つけたら、処分してください」 サトウさんはそれを聞いて、一瞬だけ表情を動かした。 でもすぐに、いつものように無表情に戻って「承知しました」と答えた。
封筒の送り主が現れる
その女性は、実はサトウさんの高校時代の友人だった。 遠回しに、告白の代行を頼まれていたのだろう。 でも結局、その手紙も、想いも、正式な「提出」には至らなかった。
恋の保存期間はもう終わっていた
タイムスタンプは十年と数ヶ月前。 もう、期限は切れていた。保存フォルダごと、削除してしまうべきかもしれない。 でもそのまま閉じた。それが彼女の答えだった。
シンドウの推理と決断
法的には無効。手続き上も不要。感情的にも、たぶん終わっている。 でもなぜか、ぼくの中では未解決だった。事件じゃなくても、答えを出したくなった。 それが、司法書士という職業の悲しき性なのかもしれない。
サトウさんの恋を推理する
一つ一つの言動、過去の言葉、さりげない気遣い。 それらをつなげていくと、一本の線になる。 その線が「恋」かどうかはわからない。でも、たしかにぼくは彼女に守られてきた。
そして証拠は一枚の紙だった
机の中から見つけた一枚の手紙。それはサトウさんが、自分宛てに書いていた下書きだった。 出されることのなかった告白。 それが、今日のすべての事件の鍵だった。
片想いは誰のものか
事件が終わっても、心の中ではまだ続いているようだった。 片想いとは、想っている本人のものであって、相手に伝えなくても完結している。 そう思うことでしか、ぼくには整理できなかった。
恋も記録されていた
パソコンの奥に、確かに残されていたデータ。 それを削除することもできたし、プリントアウトすることもできた。 けれどぼくは、なにもせず、そっと蓋を閉じた。
その保存先は事務所の片隅
フォルダ名「satou2025love」。そのまま保存されたまま、誰にも開かれることはないだろう。 でもそれでいい。 きっとそれが、彼女なりの「提出」だったのだ。