死んだはずの名義人
雨の日に届いた一通の書類
午前中から降り出した雨は、僕のデスクに置かれた封筒にも無遠慮にしみをつけた。差出人は不明、宛名は正確。でも中に入っていたのは、見慣れた様式の登記申請書。 気になったのは、申請人の署名欄に書かれた名前だった。その人物、僕の記憶が正しければ、確か――とっくに亡くなっているはずだ。
申請書に潜む違和感
不審に思いながらも一応の確認をする。登記の目的は所有権移転、添付書類には固定資産評価証明書と印鑑証明書。すべて整っている。 ただ、その印鑑証明の日付が新しすぎた。亡くなっている人間が、なぜ今この時期に役所で証明書を取得できるのか。 まるで、ドラえもんのどこでもドアでも使ったかのような話だ。
名義人の住所は空き地だった
現地調査に向かった僕は、傘を差しながらぽつんと立ち尽くした。 住所は確かに一致しているが、そこにあったのは、雑草が伸び放題の空き地。ポストもなく、住んでいた痕跡すら感じられない。 それでも登記簿上には「現に所有者あり」とある。つまり、まだ名義は生きているのだ。
隣人の証言は食い違う
近くの家のチャイムを鳴らすと、老婆が出てきた。「あそこ?もう十年も誰も住んでないよ」 しかし別の家の男性はこう言った。「去年の秋頃、一度だけ男が草刈りしてたな。誰か親戚でも来たんじゃねぇの?」 二つの証言が交差する。死人が草刈りとは、まるで幽霊の仕業だ。
役所の戸籍に異変が
戸籍を追ってみると、その人物は三年前に死亡届が提出されていることがわかった。しかし、なぜか住民票は削除されていない。 いわゆる「幽霊名義」状態。だがそのままでは登記手続きはできないはずだ。 役所のシステムミスか、それとも何者かが意図的に仕掛けた細工なのか。
被相続人は誰なのか
仮にその人物が死んでいるなら、相続人の確認が必要だ。戸籍をさらに遡ると、甥が一人いることが判明する。 だがその甥は「知らない、うちは関係ない」と突っぱねた。まるで怪盗キッドが煙玉を投げて逃げるような、消え方だった。 それでも、何か知っているような目だったのが気になった。
不在者の印鑑証明の謎
そもそも、どうやって亡くなった人間の印鑑証明が発行されたのか。それが最大の謎だった。 サトウさんが黙ってパソコンを叩き、すぐに役所の電子申請ログを調べ始めた。数分後、「これです」と一言。 偽名で代理人申請された記録があった。IPは市内のネットカフェからだった。
サトウさんの冷静な観察
「この提出書類、押印の印影が微妙に違います。スキャナーで加工された跡があります」 淡々としたサトウさんの言葉に、僕は背筋がぞくりとした。あの印鑑証明も偽造されていたのだ。 やれやれ、、、まるでルパン三世に盗まれた気分だ。こちらの手の内を完全に読まれている。
もう一人の名義人
登記簿の古い欄をよく見ると、共有名義になっていたことが判明した。もう一人の名義人――それが件の甥の父親だった。 彼は数年前に失踪し、今も行方不明。だが、失踪届も出されていない。 「これは登記を使った遺産のなりすまし詐欺かもしれませんね」とサトウさん。
過去の登記が語る嘘
30年前の登記には、売買契約書が添付されていた。だが、その契約書の筆跡と今回の申請書の筆跡が同じだった。 つまり、誰かが30年も前からこの計画を温めていた可能性があるということ。 一体、誰がそんな長い時間をかけて?
地元の古い司法書士が残した手帳
かつてこの案件を扱ったことのある老司法書士の自宅に挨拶に行った。 「ほう、あの土地か。あれは昔からちょっといわくがあってな」 古い手帳を見せてもらうと、ある一言が赤字で書かれていた――「この土地、いじるとやけどするぞ」
通帳に記された最後の引き出し
金融機関の調査で、死亡したはずの人物名義の口座から、最近になって現金が引き出されていたことが判明した。 しかも監視カメラには、帽子を目深に被った中年男性の姿。顔は映っていなかったが、その歩き方に見覚えがあった。 それは、甥の父親にそっくりだったという話だ。
その家は誰のものか
結局、名義の混乱と偽造が判明し、登記申請は却下された。法務局は刑事告発を検討中とのこと。 登記簿上の所有者は不在、物理的な土地は空き地。実態なき「所有」が生んだ悲劇だった。 まるでカツオが勝手に波平の判子を押して叱られるような、古典的な展開だ。
生きていたのは記録だけ
法的には死んでいるが、紙の中では生き続ける名義。人が亡くなっても、記録は独り歩きし続ける。 その名義を使った悪意が、静かに財産を動かしていく。 登記の世界は、時に生者と死者の境界をあいまいにする。
サトウさんの推理と僕のうっかり
「先生、またハンコ押す欄間違ってますよ」と冷たく言い放つサトウさん。 僕は反論もできず、ただ苦笑い。いや、彼女がいなければ今回も途中で迷子になっていたに違いない。 推理は冴えなくても、最後には形になる――元野球部の底力だと自分を慰めるしかない。
やれやれ名義の重みは生半可じゃない
事件が終わっても、心にはどこか重さが残る。名義とは、人の記憶と権利の象徴だ。 それを軽く扱えば、簡単に壊れるし、人も巻き込まれる。 やれやれ、、、今日も司法書士に休む暇はない。