心をなくした遺言

心をなくした遺言

訪ねてきた依頼人

午前十時を少し過ぎた頃、事務所のドアが控えめにノックされた。来客の少ないこの時間帯にしては珍しい。椅子から立ち上がる気力も薄れていたが、扉を開けると、白髪交じりの落ち着いた女性が立っていた。

「あの……遺言書について、相談したいことがありまして」と、彼女は口を開いた。目元に哀しみを滲ませながら、何かを探しているようだった。

午前十時の静かな来訪

その女性は、自分の父が半年前に亡くなったこと、そして亡くなる前に自筆の遺言書を残していたことを語った。ただ、その遺言には重大な疑問があるという。

内容は兄に全財産を譲ると記されていた。しかし、父は生前、平等に分けたいと口癖のように言っていたという。彼女はどうしても腑に落ちない様子だった。

感情の見えない依頼内容

書類には確かに父親の署名と押印があった。形式も整っている。だが、女性の訴える「父の心」が見えない遺言だった。「父は、こんなことを書く人じゃなかったんです」と彼女は何度もつぶやいた。

私はふと、サザエさんの波平がカツオに説教する場面を思い出した。怒鳴っても、最後には茶の間に笑顔が戻るあの家庭と、この冷たい遺言とのあまりの落差に、胸がざらついた。

争続の予感

相続ではなく、争続。遺言書があるにもかかわらず、兄妹間で不信が芽生え、それが大きく育っていくのはよくある話だ。

ただ、今回の案件にはもう少し違う空気が漂っていた。誰かが意図的に“心”を隠している、そんな感触があった。

兄妹のあいだにある亀裂

彼女の兄は地元の名士で、実家の土地も事業も取り仕切っていたという。口調は穏やかだが、彼女の言葉にはっきりとした警戒がにじんでいた。

「兄はきっと、父の遺言をどうにかしたのではないか」と彼女は言った。証拠はない。ただ、そう信じざるを得ないほどの確信があった。

生前に交わされたはずの遺言書

私は彼女から、父が通っていた医院や介護施設、通帳の履歴などを預かり、一つずつあたっていくことにした。何かが見つかるはずだ。いや、何かを“見つけないといけない”と感じた。

司法書士は探偵ではない。だが、目の前で泣きそうな顔をした人間がいる限り、放ってはおけないのがこの職業の不思議なところだ。

見えない心と見える書類

私はコピーした遺言書を机に広げ、細かい筆跡まで拡大鏡で確認した。確かに父の筆跡に似ている。だが、似ているからといって本人とは限らない。

偽造の疑いが完全に拭えない。筆跡鑑定までは踏み込めないが、過去に作られた書類と照合して矛盾点が出る可能性もある。

本人の署名があるのに違和感が残る

署名の最後の一文字が、少しだけ震えていた。病気の影響かもしれない。だが、サインの癖が一部だけ不自然な曲がりを見せていた。

まるで、別の人物が“似せて”書いたような気配。私は思わず眉をひそめた。

サトウさんの冷静な一言

「この日付、病院の記録と合わないですよ」

書類を見ていたサトウさんが、無表情のまま指を差した。入院中で、筆記具も持てない時期だったという。決定的なヒントだった。

過去の登記と向き合う

私は法務局で過去の登記簿を調査し、父が生前にどのような財産移動をしていたのか洗い直した。すると、死の直前に兄名義に変更された土地が浮かび上がった。

その手続きも司法書士を通じて行われていたが、手数料が不自然に安い。何かを隠している可能性が高かった。

古い登記簿が語る違和感

登記申請書に記された依頼人の署名が、例の遺言書のサインとほぼ一致していた。だが、内容が違う。ここでも“心”が感じられないのだ。

「形式は整っていても、魂がない」――そうサトウさんが言ったとき、私はうっかり「うまいこと言うね」と感心してしまった。

やれやれ、、、これは一筋縄ではいかない

資料の山とにらめっこしながら、私はソファに沈み込んだ。肩が重くて仕方がない。司法書士は探偵じゃない。だが、いつも誰かの“謎”に巻き込まれる。

「やれやれ、、、」とため息をついた瞬間、ふと頭にひらめきが走った。

消えた本音と残された証拠

父親が入院中に残したボイスメモの存在を、看護師から聞き出した。それは兄が消そうとしたが、病院の記録サーバーには残っていた。

録音には、はっきりとこう記されていた。「財産は二人に半分ずつ。兄妹仲良く暮らしてほしい」

記憶の中のもう一人の証人

それを聴いた彼女は、涙を流していた。「やっぱり……」とだけ言った。私は彼女の肩を軽く叩いたが、何も言葉は出なかった。

言葉よりも、記録された“父の声”がすべてを物語っていた。

録音された声の真意

そのメモは、裁判での証拠として扱われた。結果、遺言書は無効とされ、兄も認めざるを得なかった。形式だけの遺言より、残された“心の声”が勝ったのだ。

やはり、心は形式を超える。

心の居場所がわかったとき

事件が終わってしばらくして、彼女は再び事務所を訪れた。「父の心は、私の中にずっとある気がします」と、やわらかく笑った。

私は「ああ、それが一番の相続かもしれませんね」と答えた。彼女の笑顔は、誰かの言葉よりずっと雄弁だった。

沈黙が意味していたこと

あの遺言書が語らなかったもの。それは、沈黙の奥に隠れた本当の想いだった。私はその静けさを、もう疑わないと心に決めた。

沈黙の中にあるものを、読み取る。それも司法書士の仕事なのだ。

残された者たちへの手紙

その日、机の引き出しに、父親が彼女にあてた手紙が届いた。兄が渡す決意をしたのだろう。内容は短く、だが温かかった。

「お前は、いつも心の声を聞いてくれる子だった。ありがとう」

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓