彼が残した最後の署名

彼が残した最後の署名

委任状の封筒が届いた朝

朝、机の上に置かれた分厚い封筒を見つけた。差出人欄に書かれた名前に、思わず手が止まる。そこには、かつての恋人の名前が記されていた。

別れてから三年。連絡は一切なかった。なぜ今になって私に委任状を?書類の束はきっちりとホチキス留めされ、妙に几帳面だった。

「サトウさん、この件、調べてみる必要がありそうだな」私は声をかけながら、胸の奥にひっかかるものを感じていた。

何気なく開けた一通の書類

開封した書類は不動産の名義変更に関する委任状だった。対象は彼の亡父の名義の古びた家屋。地元の山あいにあるという。

「何で今さら……?」口に出してみても誰も答えてくれない。ただの名義変更にしては、急ぎの文言が多すぎた。

日付も最近のものだ。だが、住所は引っ越し前のもので、もう彼はそこにいないはずだった。

元カレの名前が記された差出人欄

奇妙なことに、署名欄の筆跡が以前の彼のそれと微妙に異なっていた。年月が経てば字も変わる。

だが司法書士としての職業病なのだろう。ほんの些細な筆運びが、私の中で不信の種になった。

「これ……ほんとに本人の字か?」そんな疑念が、胸の奥にじんわりと広がっていった。

依頼内容に潜む違和感

名義変更と見せかけて、実際は相続登記の整理。しかも父親の死は数年前に起きていた。

「普通、こんなに時間を空けてから手続きしないですよ」とサトウさんがぼそりと呟く。

確かに妙だ。何かを隠すように、あるいは急ごしらえで整えられたような書類の匂いがする。

遺言の影がちらつく手続き書類

添付されていたのは公正証書遺言の写し。だが、日付が一年前で、死亡日よりも後になっている。

「これは……無効ですよね?」サトウさんが指差す。私は無言で頷いた。死後に作られた遺言など存在しない。

それはつまり、偽造か、または誰かが死を装ったかのどちらかだ。

サトウさんの冷静な分析

私は何気なく筆跡について話した。するとサトウさんは、顔を上げてきっぱりと告げた。

「それ、本人のじゃないですね。線の強弱が不自然です。しかも、これはペンじゃなくプリンタの出力をなぞってます」

やれやれ、、、彼女の観察眼にはいつも感服する。私は相づちを打ちつつ、頭を掻いた。

筆跡のブレに着目するサトウさん

「それにこれ、スキャナで読み込んだあと、トレースしてる感じがします。わざとらしく雑なんです」

サトウさんは拡大鏡を引き出し、細部を示してくれた。確かに、意図的な“粗さ”が不気味なほど見え隠れする。

「素人がやったにしては、逆にうま過ぎるんですよね……」その一言で、ただの手続きミスではないと確信した。

消えた依頼人と現れた第三者

封筒の差出人住所へ電話をかけてみた。出たのは、若い女性の声だった。名乗ると、すぐに電話は切られた。

怪しいと思い、登記簿を確認すると、所有者の変更手続きはすでに申請済みの状態だった。

だが、そこに書かれた名前は元カレでもなく、まったく聞き覚えのない別人のものだった。

電話の声は別人だった

電話越しの女性の声には覚えがあった。そう、彼の妹だった。確か高校生の頃に一度会ったきりだが、特徴的なイントネーションは忘れない。

彼が亡くなったという知らせもなかった。もし、亡くなっていないならば、この登記はどういう意味なのか。

電話帳を引っ張り出して実家を調べる。そこでも「引っ越しました」とだけ、事務的に切られた。

過去の関係に引きずられる日々

関わるな。そう思う一方で、彼のことを知る自分だからこそ、解ける謎がある気がしてならなかった。

「サザエさんで言うとね、これは波平さんがノリスケさんに土地を譲ったのに、実はそれをタラちゃんが使ってたみたいなもんですよ」

我ながら何の例えだと思いつつ、話は妙に現実味を帯びていた。やれやれ、、、こういう妙な案件ばかり舞い込む。

アリバイとしての委任状

日付を再確認すると、ちょうど彼がSNSに最後にログインしていたタイミングと重なる。

彼が生きていると仮定すれば、なぜ直接私に連絡を寄こさないのか。死を偽装している可能性も浮かぶ。

委任状がまるで、彼の存在そのもののアリバイのように見えてきた。

サトウさんの仮説と告白

「これ、全部仕組まれてます。たぶん、彼、姿を消すために家族に頼まれたんですよ」サトウさんは真顔で言った。

「でも、それって……」私は口ごもる。「犯罪の匂い、しますね」彼女は冷たく言い切った。

私は深く息をついてから、机の上の書類をじっと見つめた。これはもう、手続きの枠を超えた何かだ。

元カレの失踪と不動産の相続争い

調べていくと、彼の父親の不動産には価値がほとんどなかったはずが、近年の開発計画で値上がりしていた。

つまり、家族内で争うに足る「財産」になったということ。彼の失踪は、争いを避けるための選択だったのかもしれない。

ただ、その方法が正しいとは到底言えなかった。

真犯人の手口と動機

妹が登記を動かし、彼の生死を曖昧にしながら、家族名義から第三者名義に移していく。

すべてがバレる前に、土地を売却し、現金化して逃げる計画だったのだろう。

しかし、委任状の署名ミスがすべてを台無しにした。まるで古畑任三郎のような凡ミスだ。

相続登記を巡る家族の裏切り

調査を進めるうちに、妹はすでに海外に渡っていた。警察に連絡し、経緯を説明する。

本人不在でも司法書士としての義務は果たさなければならない。証拠はすべて揃っていた。

それでも、何とも言えぬ後味の悪さが残る。彼が望んだことではなかったはずだ。

真実を突きつける瞬間

法務局に持ち込んだ報告書と証拠一式。担当者は目を見開き、即時調査が開始された。

やがて、名義変更は無効と判断され、手続きは取り消された。

「結局、姿を現さなかったな……」私は呟いた。彼が何を守ろうとしたのか、それはもう知る由もない。

元カレの所在と沈黙の理由

数ヶ月後、私は偶然、ある地方紙の片隅で、彼の名前を見つけた。名前だけが載った死亡記事だった。

病気か事故か、詳細は書かれていなかった。ただ、そこに住所はなかった。

彼は最後まで、誰にも迷惑をかけたくなかったのかもしれない。

終わりと始まりの境界線

事件が終わった後の静かな午後。サトウさんが淹れてくれたコーヒーの香りが、疲れた神経を少しだけ和らげてくれた。

「また変な依頼、来そうですね」サトウさんがつぶやく。私は苦笑いで返す。

やれやれ、、、今日もまた、普通の登記手続きは遠い。

委任状に込められた別れの言葉

彼の署名がもし本物だったのなら、それは最後の「さようなら」だったのかもしれない。

感情を押し殺して、ただ淡々と処理された紙一枚。その裏に、どれだけの想いが込められていたのか。

私はもうその答えを聞くことはない。それでも、心のどこかで彼の無事を願ってしまうのだ。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓