朝の静けさと一本の電話
蝉の声もまだ鳴かぬ早朝、事務所の電話が鳴った。普段なら取引先か、役所からの無機質な内容だ。だが今日のその一報は、少し湿った声の女性からだった。
「亡くなった叔父の家について、相続の手続きをお願いしたいんです」と彼女は言った。
その瞬間、背筋に微かな違和感が走った。何か、普通じゃない。
いつもと違う依頼の気配
電話の主は遠慮がちで、必要以上に詳細を話そうとしなかった。声の端々に、何かを隠している気配があった。
「書類を揃えてまたご連絡します」と言い残して通話は終わる。やれやれ、、、こういう依頼は妙に引っかかる。
一筋縄ではいかない匂いがした。
サトウさんの無言の違和感
隣のデスクで書類を仕分けていたサトウさんが、ふと手を止めた。彼女は何も言わないが、その視線がすべてを物語っている。
「違和感、感じました?」と私が聞くと、彼女はため息混じりにうなずいた。
「あの人、本当の相続人じゃないかもしれませんよ」とぽつりと呟いた。
古びた一軒家の秘密
数日後、依頼人とともに現地確認のため訪れた家は、昭和の空気をそのまま閉じ込めたような佇まいだった。
木製の雨戸、錆びた表札、そして庭の片隅に置かれたままの壊れた自転車。
「叔父が住んでいた家です」と彼女は言うが、なぜかその言葉に熱がない。
相続登記のはずが妙な空白
持参された登記簿には確かに被相続人の名前があった。しかし、過去の所有権移転の記録に、不可解な空白があった。
一度、何かが消されたような跡。補正記録もない。不自然だった。
「この空白、どう説明されてます?」と聞くと、依頼人は目を逸らした。
不在者の欄に隠された影
住民票を確認すると、そこには「不在者」として記録された名前が載っていた。
これはただの相続手続きではない。誰かが、何かを隠している。
サザエさんなら、「波平さん!ちゃんと説明なさい!」と叫ぶ場面だが、こっちはそうもいかない。
近所の証言と失われた時間
近所の住人に話を聞いて回ると、皆が「この家にはもう何年も人がいなかった」と言った。
しかし、その中の一人、桜の木の手入れをしていた老婦人だけは違った。
「今年の春までは、確かに誰か住んでたのよ」と、彼女は言ったのだった。
庭の桜を見ていた老婦人
「お茶を飲みながら桜を見てたの。男の人よ、静かな感じのねぇ」と老婦人は遠くを見るように語った。
記録上の死亡日は去年の秋。だが、それが事実だとしたら、説明がつかない。
まるで生きていた誰かが、死んだふりをしているかのようだった。
住民票にいない住人の謎
役所で調査すると、その家には“現在無人”の記録がなされていた。しかしそれも、ここ一年のこと。
つまり、つい最近まで、誰かが住んでいた可能性が高い。
「誰が、何のために?」サトウさんが小さくつぶやいた。
サトウさんの推理が冴えた瞬間
事務所に戻ったサトウさんは、無言で古新聞の束を持ち出してきた。
「この家、火事になってますよ。だけど新聞には“無人の空き家”と書かれてる」
目を見張る私に、彼女は冷たく言った。「死んだことにしたんでしょう、自分の意思で」
捨てられた古新聞の意味
新聞記事には、火事の前日までポストに新聞が配達されていた記録があった。
つまり、誰かが読んでいた。それは「空き家」ではなかったということ。
彼は、社会から消える準備をしていたのだ。
名前の書き換えに潜む意図
登記簿の空白部分には、実は旧姓が記載されていた痕跡があった。
家主は偽名を使って、過去を切り離して生きていた。そして、それを家族に知られたくなかった。
「まるでルパンのような生き様ですね」と呟くと、サトウさんが軽く鼻で笑った。
登記簿が語るもう一つの人生
本名をたどっていくと、かつて別の町で別人として生活していた記録が出てきた。
そこでは事件も事故もない、ただ静かな一人の男の人生。
彼は、二度目の人生を静かに終えたかったのかもしれない。
戦後の混乱と偽名の真相
彼の過去は、戦後の混乱期に戸籍の混乱で生じたものだった。
誰も気づかず、彼自身も語らなかった、静かな逃亡者のような存在。
だが、登記簿だけは彼の痕跡を正確に記録していた。
なぜ今になって登記を動かすのか
依頼人である女性は、彼のかつての教え子だった。
「先生を、きちんと供養したいんです」と彼女は言った。
戸籍にも残らず、ただ消えていくことを、彼女は許せなかった。
遺言書が語った孤独な真実
火事跡から見つかった金庫に、小さな封筒があった。そこに遺言書があった。
「私には家族も戸籍もない。ただ、あなたがいた。それで十分だった」
筆跡はかすれていたが、想いは強かった。
血の繋がらぬ親子の契り
彼女は声を上げて泣いた。「私は、先生の娘になりたかったです」
法では結ばれない絆が、そこには確かにあった。
登記簿は、ただの土地の記録ではない。人の人生が刻まれているのだ。
登記に刻まれた最後の願い
登記変更の申請書に、私は静かに判を押した。
そこには「財産」というより、「想い」が残されていた。
やれやれ、、、今日は少し重い仕事だった。
依頼人の涙とサトウさんの背中
事務所を出るとき、依頼人が深々と頭を下げた。
その姿を横目に、サトウさんは無言で書類を片付けていた。
「ああ見えて、泣いてましたね」と私が言うと、彼女は静かにうなずいた。
司法書士の役目とは何か
登記という仕事は、ただの手続きではない。人生と人間関係の断片を扱う仕事だ。
時には証人として、時には代弁者として立ち会うことになる。
今日のように、誰かの孤独をそっと照らす日もある。
無言の感謝が胸に染みる
帰り際、依頼人が私の手をぎゅっと握った。
「先生にお願いしてよかったです」その一言だけが、今日のすべてだった。
その言葉に報われる瞬間が、司法書士の報酬かもしれない。
静けさが戻った事務所にて
夕暮れの光がカーテン越しに差し込み、事務所は静寂に包まれていた。
デスクの上には処理済みの書類と、冷めたコーヒーが置かれている。
今日もまた、人生の一片に触れてしまったようだ。
やれやれ、、、今日も一日が終わる
コーヒーをすすりながら、私はため息をついた。
「やれやれ、、、結局、俺は何者にもなれなかったな」とつぶやくと、
隣から「なれてるでしょ、ちゃんと」とサトウさんの声がした。
明日もまた人の縁と向き合う
どこかで誰かが、また悩みを抱えて電話をしてくる。
そのたびに、私は名前も知らない人生の帳尻を合わせていく。
そしてまた、登記簿が物語を語り始めるのだ。