鍵のかかった応接室
静まり返った事務所の中で、唯一、応接室のドアだけが異様な沈黙を保っていた。普段なら気にも留めないが、今日は違った。朝から来るはずの依頼人が姿を見せず、その応接室のドアには、内側から鍵がかけられていたのだ。
「サトウさん、応接室って…鍵、かけたっけ?」 「知りませんよ。私はそもそも入ってませんし」 冷たく返されるその言葉が、今のところ唯一の手がかりだった。
午後三時の来客
予定では、午後三時ちょうどにとある不動産会社の社長が相談に来ることになっていた。彼の名前は「加瀬」。以前、相続登記の件で一度顔を合わせたきりだが、その時の目つきがどこか獣じみていたのを覚えている。
しかし、その加瀬が事務所に来た形跡はどこにもない。受付に置いた来客記録も空白のままだ。サトウさんは「そんな人来てません」と言い切る。
鳴らなかったインターホン
事務所のインターホンは、入口のカメラと連動しており、訪問者が来れば自動で録画される仕組みになっている。その録画データを確認してみたが、午後三時前後には誰も写っていなかった。
「まるで…怪盗キッドみたいに消えたってわけか」 そうつぶやいた瞬間、サトウさんの目線が鋭くなった。
書類の山と取り違え
事件の直前にバタバタと取り扱っていた相続登記の書類一式。机の上はいつも以上に散らかっていた。そこに加瀬という名前の別の書類が紛れ込んでいたことに気づいたのは、少し後のことだった。
「これ、誰のです?」 「…あ、それ多分違う加瀬さんのじゃ」 「違う? じゃあ何で今日来る予定の人の名前が?」 サトウさんの問いは鋭く、僕の額に汗がにじむ。
サトウさんの冷たい視線
何もしてないのに、なぜこんなに怒られているのか。サトウさんの視線が背中に突き刺さる。彼女は普段から無駄口を叩かないが、怒っているときほど、静かになる。
まるで、タラちゃんに叱られるカツオくんの気分だ。「しっかりしてなのですぅ」と言われてる気がして、胃が痛くなってくる。
開かずの扉と冷たいコーヒー
応接室の扉は内側から鍵がかかっており、叩いても反応がない。仕方なく、事務所のスペアキーで開けると、そこには…誰もいなかった。テーブルの上には、冷えきったコーヒーカップが一つ。
椅子は微妙に引かれた状態で、誰かがそこに座っていた痕跡だけが残っている。
応接室に残された名刺
テーブルの端に名刺が一枚落ちていた。「加瀬康彦」と書かれているが、それが本当に今日来る予定だった人物かはわからない。電話番号も載っているが、かけてみると「現在使われておりません」のアナウンス。
「サトウさん、これって…」 「偽名かもしれませんね。やれやれ、また厄介なタイプですね」 僕の決め台詞を、先に奪われた気分だった。
誰が鍵を持っていたのか
事務所の鍵は、僕とサトウさん、そして清掃担当の業者が一本ずつ持っている。しかし、業者は週末しか来ない。仮に誰かが鍵を盗んだとしても、それで密室が作れるとは限らない。
誰が、どんな目的で部屋に入り、出て行ったのか。あるいは、そもそも入っていなかったのか?
シンドウのうっかりが導いた真実
自分の机の引き出しを開けて、コーヒーの領収書を探していたときだった。なぜか応接室の合鍵が、僕のデスクの奥から出てきた。「あれ? これ…?」 「それ、昨日私が返したやつですよ。引き出しに戻すよう言いましたよね?」
……しまった。僕が昨日、鍵をかけたまま忘れてたのか。 「やれやれ、、、そういうことか」 犯人は、まさかの自分。
依頼人の言葉に潜む矛盾
ただ、それだけでは説明がつかない。名刺は? 冷めたコーヒーは? 電話番号の謎は? すべてが僕のうっかりだけで済まされるほど、この事件は単純ではない。
加瀬という名前を検索してみると、なんと登記上の所有者として、先週死亡した人物の名前が出てきた。つまり、加瀬はもうこの世にはいないはずなのだ。
登記簿と事件の意外な接点
登記簿をよく見ると、相続人の中に「笹原清美」という女性の名前があった。彼女の住所を調べてみると、なんと今日、来るはずだった加瀬が名乗った住所と一致していた。
つまり、今日来るはずだった「加瀬」は、故人の名を騙って別人として訪れた可能性がある。目的は、書類をすり替えることかもしれない。
カレンダーの裏に隠された罠
事務所の壁にかけられたカレンダー。その裏に、ふと違和感を覚えた。めくると、そこに「委任状在中」と書かれた封筒が貼り付けられていたのだ。
中を開けると、遺産分割協議書のコピーが入っていた。しかも、筆跡が一致しない署名が混在している。つまり、偽造された書類だ。
書庫にあったもう一通の委任状
さらに書庫を探すと、加瀬の筆跡と思しき正規の委任状が出てきた。どうやら、依頼人は事前に本物を送ってきていたようだ。 じゃあ、さっきのは……入れ替えられたものか。
うっかり応接室の鍵を閉じた僕の行動が、逆に侵入者にとっては都合の良い密室になったというわけだ。
サトウさんの推理と沈黙
「最初から、誰もいなかったんです。来ていたふりをして、書類だけをすり替えた。鍵がかかっていたのは偶然じゃない。あなたのうっかりが、彼女を助けた」 サトウさんの推理は鋭く、そして残酷だった。
「つまり、私は犯人に協力してしまったってこと?」 「いえ、結果的に全てが表に出たので、むしろGJです」 塩対応にしては珍しく、少し笑ったように見えた。
やれやれ俺の出番か
警察への通報を終え、事務所に静けさが戻った頃。僕は改めてカレンダーの裏を見ながら、ポツリとつぶやいた。
「やれやれ、、、俺の出番は最後だけか」 サトウさんは、何も言わずコーヒーを差し出してきた。それは、ちょっとだけ温かかった。
真犯人が語った静かな動機
後日、逮捕された笹原清美はこう語った。「遺産を独り占めしたかった。でも、誰にも知られずにやるには、こうするしかなかった」と。 法律を利用し、法律に消された罪。皮肉な話だ。
僕の事務所では、またいつもの日常が始まった。ただ、応接室の鍵は二度と使わないことにした。鍵なんて、信用できないから。