恋より先の登記簿

恋より先の登記簿

忙しい月曜と届かぬ書類

雨とコーヒーと午前九時

冷たい雨がアスファルトを叩いていた。私はいつものように、ぬるい缶コーヒーを片手に、机の書類を見つめていた。眠気と疲れの入り混じった月曜の朝だ。
電話は鳴らず、ただ雨音とサトウさんのキーボードの音だけが事務所に響く。そんな静けさの中、私は嫌な予感を覚えていた。なにか、どこかで歯車がずれている気がしたのだ。

サトウさんの無言と机の上の封筒

「届いてませんね、例の書類」
サトウさんが目を合わせずにつぶやく。机の上に置かれた封筒は、見慣れた名義のものだったが、中身が違う。必要だったのは、別の登記関係書類のはずだ。
私は封筒を開ける手を止めて、椅子に沈んだ。うっかり忘れた可能性も頭をよぎったが、それだけでは片づけられない何かがある気がしていた。

登記と結婚のタイミング

妙に多い相談内容の一致

ここ数日、婚姻予定と不動産登記についての相談が重なっていた。たまたまかと思っていたが、同じような日取り、同じような物件構成。奇妙な一致が多すぎる。
「サザエさんちの三河屋さん並みに、タイミングが良すぎませんか」
皮肉交じりに言った私の言葉に、サトウさんは「どうでしょうね」とだけ答えた。

婚姻予定と登記予定の交錯

ある依頼人は「結婚前に登記しておきたい」と言い、別の依頼人は「婚姻後の共有名義にしたい」と言った。だが彼らが登記しようとしている物件は、奇しくも同じものだったのだ。
一件の物件を巡って、二組の男女が異なる形で関与している。それがただの偶然であるとは思えなかった。

遺産分割協議の裏側

元婚約者という肩書

事情を聴いていくうちに、一人の女性が両方の話に登場していることに気づいた。彼女は一方では「元婚約者」、もう一方では「共同相続人」として記されていた。
それぞれの立場で語られる彼女の印象は異なっていた。まるでキャッツアイのように、夜と昼で顔を使い分けているような、そんな女性だ。

サインされた書面の違和感

提出された遺産分割協議書に、わずかな違和感があった。印影は問題ないが、筆跡がやや揺れている。年齢的に手が震えるような相手ではない。
私はふと、以前に受け取った別の書面を引っ張り出し、照らし合わせてみた。そこには一文字だけ、決定的な違いがあった。

ふたつの印鑑証明書

「同姓同名」には気をつけろ

「これ、別人ですね」
サトウさんがため息交じりに言った。ふたつの印鑑証明書。名前も住所もほぼ同じだが、印影が微妙に違う。しかも発行日がわずかにずれていた。
司法書士を長年やってると、「まさか」が日常茶飯事だ。それにしても、これはちょっとしたトリックだ。まるで探偵漫画の世界だな、と思った。

古い登記簿の端に潜むもの

私は法務局に電話し、古い登記簿の謄本を確認した。すると、そこにはかすれた鉛筆の跡が残っていた。恐らく、何かを書きかけて消したのだ。
誰かが履歴を上書きしようとしていた。物件の名義を変えるだけでなく、「歴史」そのものを塗り替えようとしているのだ。

昔の恋と今の利害

不自然な相続人の構成

「この相続、誰か一人余計ですよ」
そうサトウさんが言ったとき、私はハッとした。確かに戸籍には記載があるが、相続対象の不動産とは関係ない人物が紛れ込んでいた。
その人物こそ、問題の女性だった。彼女は元恋人を亡くした後、彼の家族に接近し、遺産の一部を受け取るよう動いていたのだ。

誰が彼女を登記簿に載せたのか

問題はそこからだ。誰かが彼女のために登記手続きを進めていた。そして、それが婚姻前なのか後なのかで、名義と財産の帰属が変わる。
「登記簿が恋より先にあった、ということですかね」
私の皮肉に、サトウさんは「登記は冷たいですから」とだけ言った。

サトウさんの推理ノート

ファミレスの紙ナプキンが語る真実

サトウさんが取り出したのは、いつの間にか持ち帰っていたファミレスの紙ナプキンだった。そこには、走り書きのようなメモが残されていた。
どうやら、相談に来た依頼人のひとりが、待ち時間に書いたものらしい。彼は気づかずそれを置いていったが、内容は決定的だった。

やれやれ、、、手柄を奪われる気しかしない

そのメモにより、全ての矛盾が解けた。元婚約者の策略、登記の順番操作、印鑑証明の差し替え。それら全てが一本の線でつながった。
私は大きく息を吐いた。「やれやれ、、、サトウさんの方が名探偵みたいだよ」
彼女は何も言わず、さっさとナプキンをシュレッダーに放り込んだ。

元野球部の記憶と勝負勘

三塁ベースを回った女

記憶の奥に、かつて野球部時代に見た試合の一場面が浮かんだ。勝負所で三塁ベースを踏み忘れた走者が、アウトになったシーンだ。
今回もそれと同じ。彼女は一歩、踏み間違えた。順番を守らなかったことが、全てを狂わせた。

書類の提出時間は誰が決めた

提出された書類の時間は午後四時。だが、彼女の印鑑証明はその前日。つまり、その書類が使われたこと自体が矛盾している。
事務局が慌てて差し戻した記録が残っており、偽装工作は失敗していたのだ。彼女はすでに詰んでいた。

真犯人は登記の順番を知っていた

たかが順番されど順番

司法の世界では、順番が全てを決める。登記の優先順位がそのまま、権利の帰属を左右する。
彼女はそれを知っていて、かつての恋を使って、未来を手に入れようとしたのだ。

遅れて届いた書類の意味

あの封筒。月曜朝に届いたそれは、最後の伏線だった。彼女がもう一人の依頼人に出させた書類が、登記順を狂わせる目的だったと判明した。
だが、遅れた。ほんの数時間。それが、全てを水の泡にした。

サインの筆跡と誰かの嘘

過去の恋が招いた現在の混乱

誰かを愛したことが、誰かを傷つける。そんな単純で複雑な話が、こうして一つの登記簿に閉じ込められていた。
感情が法律に勝てるわけではない。だが、逆もまた然りだ。

書かれていないことが全てを語る

登記簿には名前と日付しか書かれていない。けれど、その余白がすべてを物語っていた。誰が、どんな意図で、なにを隠そうとしたのか。
真実は書かれていない行間にある。それに気づけるかどうかが、我々司法書士の腕の見せ所なのだ。

恋より先の登記簿

真実はどちらを優先するかで変わる

結局、どちらが正しかったのか。恋か、登記か。優先すべきは何だったのか。答えは依頼人ごとに違うだろう。
私は登記を優先した。それが、私の仕事だからだ。

登記簿は嘘をつかないとは限らない

記された情報は事実でも、その背景には無数の嘘がある。だからこそ、私たちは登記だけで判断してはいけない。
そして、忘れてはいけない。
恋もまた、嘘から始まることがあるということを。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓