印鑑は語らない
八月の蒸し暑い朝、事務所の前にぽつんと置かれていたのは、黒いキャップがついた印鑑だった。誰かの落とし物かと思ったが、地面には朱肉の跡がわずかに残っている。単なる忘れ物にしては、どこか異様な雰囲気をまとっていた。
サトウさんがそれを見つけたのは、いつものように一番乗りで出勤した時だった。玄関の扉を開ける前に、足元の異物に気づいたらしい。
朝の異変
赤い印影が語るもの
その印鑑は、既に何かに使われた形跡があった。キャップを外すと、朱肉がまだ新しかった。ふと足元に目をやると、新聞受けの隅に封筒が押し込まれている。差出人の名前はない。ただ一枚の白紙と、一つの印影が押されていた。
「これ、あんたの知り合い?」とサトウさん。いや、知らないとしか言えなかった。だが、どこかで見たような印影だった。
サトウさんの冷たい視線
「また変なのに関わったんじゃないでしょうね」と、冷ややかに言い放たれる。こちらが否定する間もなく、彼女は封筒を手に持ち、静かに中を覗いた。「何も書いてない。ただ印影だけ。意味わかりません」
僕は少し背筋が寒くなった。文字がない、つまり証拠にならない。だが印鑑だけが残されているというのは、なにか訴えがあるのではないか。まるでサザエさんのように「なんでこんな時にハンコだけ…?」と、額に手を当てたくなった。
依頼人は名乗らない
置き手紙のない印鑑
依頼人が名乗らないというのは、司法書士にとって最悪の始まりだ。電話もなければ予約もない。封筒に同封されていたのは、古びた固定資産評価証明書だった。なぜこれがここに?というような。
「これ、もう亡くなった人のものじゃないですか?」サトウさんの分析は的確だった。書類の日付は十年前。名義人は既に死亡しており、相続登記がされていない物件の情報だった。
前日に来ていた男
前日、確かに一人の男がふらりと事務所に現れていた。資料を探しているふりをしながら、やたらと入口近くをうろうろしていた中年男。特に目立った特徴はないが、不自然なほど玄関マットの位置を気にしていたのを思い出す。
あの男がこれを?だが、目的は?登記を頼みたいのなら名乗ればいい。印鑑を置いていく理由が、まるでわからなかった。
古い登記と新しい違和感
名義変更の痕跡
調べてみると、その土地は相続されないまま、誰かの手によって勝手に使用されていた形跡がある。無断使用。それも、地元の顔なじみの不動産屋が関わっていた。例によって「うちでは知らない」の一点張りだったが、手口はあまりにも稚拙だった。
印鑑、それが唯一の手がかりだった。名義人の遺族からの依頼か、あるいは内部告発か。印鑑に刻まれた名字は、僕の記憶を刺激した。
封印された謄本
地元の法務局の奥に眠っていた古い登記簿謄本。今では電子化されているため閲覧には手続きが必要だが、アナログの痕跡は完全には消えていなかった。かすれた字体、手書きの注釈、そして当時の司法書士の名前。どこかで見た記憶がある。
やれやれ、、、また面倒な展開になりそうだ、と僕は眉間を揉んだ。まるでルパン三世の銭形警部のような気分だった。
思い出す過去の依頼
あの未登記の農地の件
七年前、同じように相続されないまま放置されていた農地の件で、僕は関係者に詰め寄ったことがある。あの時の依頼人は、後日失踪した。その男の名字と、印鑑に刻まれていた文字が一致していた。
この印鑑、当時のものかもしれない。いや、違うかもしれない。だが偶然とは思えない一致に、背中がぞわりとした。
やれやれそんなことか
偽名と印鑑の一致
サトウさんがポツリと言った。「あの男、偽名じゃないですか?」僕は資料を見返す。印鑑に刻まれた名字と、不動産屋の仮契約書に書かれていた名義が微妙に違う。字体が似ているだけで、まるで別人のように見せかけている。
つまり、他人の名義で土地を動かそうとした。印鑑を残したのは、自白なのか警告なのか。それはわからないが、少なくとも黙ってはいられなかった。
語らない印鑑の証言
誰が押したかではなく何を隠したか
証明できない印影はただの模様にすぎない。だが、それが「誰かが隠した事実」を暴く鍵になることもある。印鑑は語らない。しかし、状況は語っていた。僕たちはそれを読み取らなければならない。
サトウさんは印鑑と封筒を封緘し、証拠保全の準備を進めていた。口は悪いが、やはり頼れる相棒だ。
真実は朱肉の奥に
結局、男の正体は特定できなかったが、彼の意図は明らかだった。不正に気づいた誰かが、印鑑を置いて僕たちに「止めてくれ」と託したのだろう。匿名の勇気。司法書士として無視するわけにはいかなかった。
書類の整備、調査、そして関係者への報告。それが僕の仕事だ。やれやれ、、、また仕事が増える。だが、こういうのが嫌いじゃない自分に気づいてしまった。