静かな法務局の朝
八時五十五分、俺はいつものようにボサボサの髪をワックスで誤魔化しながら法務局の受付に並んでいた。 朝一番に登記申請を済ませるのが俺の日課だが、今日のロビーは妙に落ち着かない雰囲気が漂っていた。 職員の一人がカウンター越しに小声で「さっきの人、ちょっと変じゃなかった?」と囁いていた。
申請書を持った謎の女
俺の前に立っていた女は、黒のパンツスーツに大きめのサングラスという出で立ちで、無言で申請書類を提出していた。 顔が見えないせいか、何か妙に浮いていた。あの『サザエさん』の花沢さんが変装したらこんな感じだろう。 局員も戸惑いながら受付印を押していたが、女は何も言わずにふらりと奥の登記室のほうへ歩いていった。
見慣れぬ訂正印の不自然さ
女の出した書類が置きっぱなしになっていたのを、受付の局員が俺に見せてきた。「ちょっと見てくださいよ」と。 訂正印がやたらと小さく、しかも印影が微妙に歪んでいた。訂正箇所も曖昧で、記載の一部が二重線になっていなかった。 俺はうんざりしながら「まさかこれ、誰かの印鑑をコピーしたとかじゃないだろうな」と呟いた。
サトウさんの違和感
事務所に戻って事情を話すと、サトウさんは目も合わせずに「写真撮っておけばよかったのに」と冷たく言った。 確かに、俺はまたしても大事な場面でスマホをポケットに入れっぱなしだった。 「でも、訂正印が変って話、ちょっと面白いですね」と、彼女は書類の写しをじっと見つめた。
「この印鑑、変ですね」
「これ、実印じゃないですよ。印鑑証明と付き合わせたらアウトだと思います」 彼女は登記原因証明情報の欄を指差しながら言った。「しかもこれ、女性の名前ですけど、使ってる文体が男性っぽい」 確かに言われてみれば、確定日付を取った書類の文末が「致します」ではなく「いたします」になっていた。
塩対応の裏にある推理力
その日一日、サトウさんは何か考えているようでやけに静かだった。 俺が「今日はカレーにするかな」と言っても「勝手にどうぞ」としか返さない。 だが午後三時、ふいに「あの女性、別人の名前で申請してる可能性あります」と言い出した。
登記簿に刻まれた過去
俺はさっそく登記情報サービスで該当の物件を検索した。出てきた名義人は、三年前に離婚したという女性だった。 しかもその女性、過去に何度か改名と転居を繰り返していて、現在の戸籍が確認できない状態になっていた。 「これは…たぶん、過去を消そうとしてるな」と俺はつぶやいた。
旧姓と新姓をめぐる謎
書類には新しい名前が書かれていたが、印鑑は旧姓のものだった。 「旧姓で実印が押されてるのに、新姓で申請されてる…。これ、登記通ったら問題ですよ」 俺は思わず、かつての某怪盗漫画のように「ルパンも顔を赤らめる偽装申請だな…」と冗談めかして言った。
何度も現れる申請人の正体
さらに過去の履歴を辿ってみると、同じ筆跡の申請が他の地番でも複数回確認された。 しかも、どれも名字だけが違っていて、いずれも名義変更が絡んでいた。 「これは…申請のプロ、いや“なりすまし”のプロかもしれんな」と俺は天井を見上げた。
姿を消した女
翌日、俺は再び法務局へ向かったが、あの女の姿はどこにもなかった。 監視カメラの記録を求めたが、「プライバシーの関係で」と門前払いされた。 だが、偶然居合わせた地元の司法書士仲間が「ああ、あの女。昨日も来てたよ。すぐ奥に消えてったけど」と教えてくれた。
午前十時三十五分の防犯カメラ
俺の知り合いの登記官に頼んで、それとなく映像の様子を聞き出すことができた。 「カメラに映ってたんだけどさ、不思議と申請室に入ってから、出てくる姿が映ってないんだよ」 なるほど、怪盗が煙幕で消えるように、彼女もまた法務局のどこかで姿を変えたらしい。
資料室で見つけた意外な痕跡
備え付けの資料室を確認したところ、誰かが置いていった登記済証の控えが棚に挟まっていた。 それには別の名前、だがまったく同じ筆跡の署名がされていた。 「やれやれ、、、また一から戸籍追い直しか」と、俺は頭を抱えた。
シンドウのうっかりとひらめき
帰り際、ふとポケットの中を見て俺は凍った。なんと、その女が出した訂正印つきの申請書の写しが一枚、俺の書類と混ざっていたのだ。 「やっべ、間違って持ってきちゃった…」 だがそれこそが決定的な証拠となった。
間違って出した申請書が手がかりに
その写しには、誰にも見せていないはずの新名義と旧住所が両方記されており、それが戸籍の繋がりを完全に証明していた。 俺はそれを手に市役所で除籍謄本を取り寄せ、連続なりすまし事件の核心に迫った。 そして、警察に通報する前に法務局にも連絡を入れた。
やれやれ、、、それでも答えは見えた
「事件解決ですね」とサトウさんは言ったが、俺は複雑な気持ちだった。 「でもさ、彼女も誰かになりたかっただけかもしれないな」 サトウさんは、冷たく「それでも違法は違法です」と言い放った。
最後の登記と女の正体
後日、警察からの報告で、女はかつて詐欺事件の関係者で指名手配中だったことが分かった。 本名も偽名もすべて虚構であり、まさに法の隙間を縫う“登記ゴースト”だった。 登記申請という紙の中にしか存在しない、影のような存在だった。
戸籍の中にあった動機
なりすましを繰り返した理由は、相続による土地取得と、不正な売却による利益だった。 各地で名義を変え、別人として登記し、売却してはまた消える。 だが今回、ついに足がついたのは「訂正印の甘さ」だった。
過去を消すための最後の手段
最後の申請は、彼女自身を記録から抹消するためのものだった。 一見するとただの所有権移転登記だが、それに添付された書類には、明確な痕跡があった。 過去を消すために過去の記録を書き換えるという、本末転倒な行為だった。
そして誰も書類を見なかった
事件が終わった今、誰もその書類の存在を語らない。法務局の棚には、ただ静かにファイルが収まっているだけだ。 だが俺だけは知っている。そこに確かに「登記室の奥に消えた女」がいたことを。 やれやれ、、、紙の世界もなかなか油断ならない。
静かに閉じられたファイルの裏側
俺はそっと登記完了ファイルを閉じ、コーヒーを一口すする。 サトウさんは無言で書類を整理している。 そして今日も、法務局には新たな申請人がやってくるのだ。