謎の依頼人と一冊の登記簿
その日、事務所の扉が軋む音とともに開いた。目深に帽子を被った女性が、一冊の登記簿のコピーを手に現れた。年の頃は五十代半ば、声はやけに落ち着いていて、「この土地、私の父のもののはずなんです」と言った。
差し出された登記簿を手に取ると、確かに古い名義が記載されていた。だが、現在の法務局で確認できる内容とは一致しない。戸籍でもなく、住民票でもなく、ただ登記簿の中だけに存在する名前だった。
古びたファイルを携えた女性
女性が持っていたファイルは、年季の入った紙袋に入っていた。中には、父親が遺したというメモや、旧地図、銀行の通知などが雑然と詰め込まれていた。そのすべてが時代に取り残されたまま、忘れられたように紙の中で眠っていた。
「私は父からこの土地を引き継ぐと聞かされていたのに、今では他人名義になっているんです」彼女の声には怒りよりも諦めが混じっていた。
亡霊のような土地の所有者
登記簿を読み進めると、所有権の移転は昭和時代に行われたことになっていた。しかし、その際の売買契約書も、登記原因証明情報も、まったく記録に残っていない。あるのはただ、所有者として書かれた謎の人物の名前だけ。
この名義人は、生きていた証すら残っていない。戸籍にも載っておらず、住民基本台帳にも登録がない。言うなれば、法務局のファンタジーのような存在だ。
記録に残らぬ名義人
「あんた、サザエさん知ってる?」サトウさんが唐突に言った。「カツオが宿題を隠すために押し入れに放り込んで、すっかり忘れてる、あれと同じだよ」
誰かが登記上の手続きを半端にしたまま、それを押し入れのように閉じて放置した。時代が進んでも、そこは誰にも開けられず、ただ紙の中で埃をかぶっていたのだ。
サトウさんの鋭い一言
「これ、地番が古すぎますね」サトウさんが指差したのは、登記簿の地番欄。現在の地番と照合すると、すでに合筆されて消えている番号だった。「多分この辺の整理は、昭和48年か49年あたりです」
そのひとことが、迷宮の糸口となった。地番が変われば名義人の辿り方も変わる。つまり、現地を見に行くしかない。昭和の合筆処理の謎を解くには、紙では足りないのだ。
数字の並びに隠された鍵
資料室から古い住宅地図を引っ張り出し、昭和期の地番と現代地番の変遷を調べた。すると、旧地番の一部だけが特異な経路で合筆されており、その過程で一部が「迷子」になっていた。
「やれやれ、、、また紙の迷路か」と、思わずつぶやく。まるで探偵漫画の一話みたいだ。けれど、僕たちにとっては毎日がそれの繰り返しだ。
過去の合筆と地番の罠
古い合筆処理の登記簿に、ひとつだけ記載ミスがあった。「之図ニ依ル」とあるところが、「此図ニ拠ル」と書かれていた。言い回しの違い一つで、登記が別扱いになっていた。
そう、まるでルパン三世の偽の設計図に騙される警部のように、過去の職員がうっかり手続きを別ルートにしてしまったらしい。これはミスか、意図か、それとも——。
昭和48年の謄本との食い違い
昭和48年の謄本コピーを取ってみると、そこには依頼人の父の名前がしっかり記されていた。しかし、それ以降の移転が記録されておらず、所有権が宙ぶらりんになっている。
つまり、何者かが登記の連続性を断ち切ったのだ。それは偶然か、それとも故意か。このあたりから風向きが変わり始めた。
町の登記官が語る過去
「この件、昔も一度問い合わせがあってねぇ」地元の法務局で勤め上げた元登記官が、裏口から入ってきた。「でも、あの時の人は途中で諦めちゃった」
話を聞けば、その人物は依頼人の叔父にあたるらしい。遺産相続を巡って揉めた結果、土地を手放したようだ。ただし正式な登記は行われず、すべてが口約束で終わっていた。
紛失された遺言と残された印影
依頼人が後日持参した段ボールの中から、遺言の下書きと印鑑が見つかった。「これ、遺言ではなく覚え書きかもしれません」とサトウさん。だが、それは十分に新たな事実を構成するに足るものだった。
「これでいけます。遺産分割協議書とあわせて登記原因を整理しましょう」書類の山に囲まれて、思わず背筋が伸びた。
廃屋に残された真実
問題の土地には、今も朽ちかけた平屋が残っていた。誰も住んでいないその家の片隅に、赤い布にくるまれた木箱が置かれていた。中には、父の直筆と思われる日記帳があった。
「土地をユミに渡す。兄は金だけ持っていった」日記にはそう書かれていた。ユミ、それが依頼人の本名だった。
赤い布に包まれた書類
その布の中には、父親の手書きの図面とともに、登記簿の写しがもう一枚あった。日付が手元のものより新しく、移転手続き直前のものだった。つまり、正式な処理はその直後に止まっていたということだ。
この資料が、すべてをひっくり返した。
登記完了と小さな別れ
申請は無事通り、所有権移転は完了した。依頼人は目を潤ませながら、「父が言っていたこと、本当だったんですね」と呟いた。長年信じてもらえなかった想いが、やっと形になった。
事務所に戻る途中、缶コーヒーを買ってサトウさんに渡すと、「今日に限っては褒めてあげますよ」とだけ言った。やれやれ、、、もうちょっと素直に言ってもいいじゃないか。