愛憎の末に交わされた解約
机の上に一通の封筒が置かれていた。差出人は、以前登記で関わった依頼人の元夫。中には、離婚に伴う財産分与の解約証書が入っていた。だが、その文面と印影には、どこか引っかかるものがあった。
「この感じ、前に見たような……」記憶の奥から何かが引きずり出されようとしていた。
僕は封筒をつまみ上げ、サトウさんの机の上にぽんと投げた。「これ、ちょっと見てくれる?」
解約証書が届いた朝
その朝は曇りで、空はどんよりと重かった。まるでこの書類がもたらす気配を先取りしたかのようだった。封筒の中の解約証書は、整った形式のように見えて、どこか「演じた丁寧さ」がにじみ出ていた。
印鑑の押し方も、ぎこちない。朱肉の滲み方がどうにも不自然で、まるで誰かが「それっぽく」見せようと努力した跡が残っていた。
こういう書類には、たいてい人間関係のしこりが残っている。今回はそれが形になって、今ここに届いたのだ。
元妻の筆跡に違和感
ふと、筆跡に注目する。細い線で書かれた解約理由の文言。しかし、その字は、僕が以前登記を担当した時に記憶していた依頼人の字とは違っていた。
「前より…線が揺れてますね」とサトウさんが冷静に言う。筆圧もまるで違うのだ。
まるで、誰かがその人になりすまして書いたような――あるいは、本人の手ではないような。
サトウさんの冷静な観察
「これ、印鑑証明ついてませんよね」とサトウさんは即座に言った。「あったはずの添付書類が足りない。」
たしかに、過去の申請書類には印鑑証明が添付されていたが、今回はそれがなかった。単なるミスなのか、それとも意図的な除外か。
サトウさんは黙ってコピー機に向かい、過去の控えを手際よく印刷して比較し始めた。
残された印影と空白の欄
用紙の下部、通常ならば双方の署名捺印欄があるべき箇所に、片方だけの印影しかなかった。しかもその下には、押されるべき署名が空欄のままだ。
つまり、これは完成された契約書ではなく、途中で止まった「書きかけの書類」にすぎなかった。
だとすれば、なぜそれがこちらに送られてきたのか。ミスでは説明がつかない。
思い出される一年前の別件登記
ふと一年前、同じ依頼人の名義変更登記を思い出す。あのときも、なぜか奥様が手続きを渋っていた。
理由は「仕事が忙しいから」と濁されたが、今思えばあれも何かをごまかすための言い訳だったのかもしれない。
サトウさんがその時の申請書を見つけて持ってきた。「これです、先生。」
保管庫の中の封筒
僕は事務所の書類保管棚を探し、前年の案件に関する一式を引っ張り出した。中には、手書きのメモが一枚紛れ込んでいた。
「このままでは、彼にすべて奪われてしまう」――震えるような筆致のメモ。それが誰の手によるものか、文面は語らなかった。
しかし、愛憎がにじむこの一文は、まさしくこの件の核心を暗示していた。
実印の謎と合致しない印鑑証明
法務局にある印鑑証明と、送られてきた書類の印影を照合すると、わずかにずれていた。印章の外縁が擦れており、別物とまでは言えないが、確実に同一ではなかった。
「つまり、誰かが実印を勝手に押した可能性があるってことですか?」サトウさんが尋ねる。
「うん。しかも、当人の意思が入ってないとすれば…これは単なる書類じゃなく、偽造未遂だ」
やれやれ過去の恋は面倒だ
元夫は話を濁し続けたが、最終的に彼の口から漏れた言葉はこうだった。「あの女にだけは、絶対に譲りたくなかった」
やれやれ、、、サザエさんの家みたいに、平和な別れ方は現実にはないのか。
けれどこの愛憎劇が、不完全な契約書という形で司法書士の机に転がり込むとは、なんとも世知辛い話である。
元夫が語る別れの理由
彼は泣き笑いのような顔で語った。「あれは…僕のものじゃなかった。彼女の目には、最初から誰も映ってなかった。」
所有を失うことの恐怖が、彼をこういう手段に走らせたのだろう。
愛されたかった。でもそれは、契約書じゃ縛れない。
この人にはもう関係ないはずだった
彼女はすでに新しい人生を歩み出していた。にもかかわらず、彼は過去の記憶を解約という名の書類に閉じ込めようとした。
けれど、それは関係の清算ではなく、感情の証拠品にすぎなかったのだ。
法律が裁けるのは「手続き」であり、「感情」ではない。
サザエさんのような平和な離婚は存在しない
本当の意味で平和な別れなど、ありえない。最後に残るのは、押しきれなかった判子と、伝えられなかった言葉。
そして、それを処理するのが我々司法書士の仕事だというのが、少しだけ皮肉だった。
「ま、書類は片付きましたけどね」とサトウさん。冷静なその一言が、すべてを締めくくっていた。
愛憎劇の終点にある本当の目的
彼は法的に無意味な書類を送ってきた。だが、それは未練の残るラブレターだったのかもしれない。
証拠としても、証書としても不完全。だが、人間としての悲しみがにじむ文だった。
それを読み解くことも、ある意味、我々の「推理」の一部なのだ。
解約書面が向かう先
結局、この書面は破棄することになった。効力がないからだ。だが、それによって彼の気持ちが少しでも整理されたのなら、それでよかったのかもしれない。
誰の目にも触れず、そっと処分される紙一枚。
そこに込められた叫びは、静かに灰になる。
真相にたどり着く夜の法務局
提出を急がれた別の案件で夜の法務局に走ることになったが、僕の心には先の件がずっと引っかかっていた。
事務手続きの中に、あんな濃密な感情が渦巻いていたことに、今さらながら驚いている。
「愛とか憎しみって、法的には無効ですよね」と独り言を漏らしながら、提出窓口のドアを押した。
サトウさんの一言で幕が下りる
事務所に戻ると、サトウさんが静かに言った。「先生、あの書類、こちらでシュレッダーかけておきました。」
それでいい。これで終わりだ。人の感情を、紙の山に埋めてしまえるなら、それもまた救いだろう。
「ありがとね」そう言うと、サトウさんは「どういたしまして」とも言わず、ただコーヒーを差し出してきた。
書類のすべてが語る静かな結末
愛憎のすえ、交わされることのなかった解約証書。印影、筆跡、添付の欠落――そのすべてが、真実を語っていた。
書類が語ることは、いつだって正確で冷たい。だがその裏には、必ず誰かの情熱や悲しみが潜んでいる。
僕はその一枚を忘れまいと思いながら、冷めたコーヒーを一口すすった。