はじまりは小さな違和感から
古びた通帳を手にした依頼人は、静かに言った。「これ、亡くなった父の口座なんですが……おかしいと思いません?」
通帳には数日おきに同じ金額が入金されていたが、亡くなった日以降も続いていた。口座は凍結されていないのか。
その瞬間、事務所の空気が少しだけ変わった。僕の脳裏に、嫌な予感が走った。
通帳の数字と依頼人の顔
依頼人は三十代後半の男性。落ち着いた雰囲気の中に、妙な焦りが見え隠れしていた。
「これをなんとか整理して、名義変更を進めたいんです」
数字は嘘をつかない。ただし、それを操作する人間がいる限り、真実とは限らない。
サトウさんの冷静な一言
「シンドウさん、これ、死亡日の記載と元本確定日がずれてますね」
サトウさんはモニターを見つめながらさらりと言った。僕が気づかない矛盾を、彼女はいつもすぐに見抜く。
「遺言の効力発生日と登記のタイミングがズレてるんです。しかも意図的に」
やれやれ、、、またしても厄介な案件だ。
確定日と呼ばれる日
相続登記の世界では、「元本確定日」という言葉にそれほどの重みはない。
だが、このケースではそれが「誰かの死と利益」に直結していた。
つまり、確定日をずらすことで、受け取るべき人間がすり替えられていたのだ。
登記完了日が意味するもの
役所に提出された書類の日付はすべて整っていた。整いすぎていた。
まるで誰かが計算したかのように、登記完了日と死亡届受理日が一日違いになっている。
これは偶然ではない。意図的な工作の匂いがした。
元本確定の落とし穴
確定日がズレれば、相続の対象となる財産の範囲もズレる。
その「わずかなズレ」が、百万円単位の差を生むことがある。
そしてそれを理解している人間は、限られている。司法書士か、あるいはそれに近い存在だ。
過去の登記記録に潜む矛盾
僕は古い登記記録を読み返した。何度も、何度も。
登記完了証の筆跡に、微妙な違和感があった。
「筆跡鑑定なんて、まるで金田一少年の世界だな」そうつぶやきながら、僕はページをめくった。
書類の端に残された鉛筆の跡
ある書類の端に、かすかに残った鉛筆の跡があった。数字の「七」が、妙に不自然だった。
その筆圧の弱さから、提出前に一度消されたものだとわかる。
サザエさんの波平の髪の毛のように、一本だけ浮いていたその「七」は、改ざんの痕跡だった。
なぜか戻された印鑑証明書
提出された書類の束に、本来は保管されるべき印鑑証明書が戻ってきていた。
「これ、提出時の控えじゃないですよね?」とサトウさんが鋭く指摘する。
どうやら誰かがこっそり原本を抜き取った形跡がある。理由はひとつ。別人が同じ印鑑で手続きをしたのだ。
被相続人の奇妙な遺言
遺言状は形式的には問題なかった。封緘もされ、開封証明書もついている。
だが中身が腑に落ちない。「長男にはすべてを託す」と書かれていたが、
近所の評判では、長男は勘当されていたはずだった。これもまたズレている。
法定相続分に沿わない分配
遺言があれば法定相続分は無視できる。それは制度上のルールだ。
だが、被相続人の意思と逆行する遺言が、なぜ存在していたのか。
偽造か、それとも無理やり書かせたのか。どちらにしても、誰かが意図していた。
確定期日をずらした理由
この事件のキモは、実は「確定日」ではなかった。
それをずらすことで、本来の相続人ではない者に遺産を流す仕組みが作られていた。
意図的にずらされた一日。それが全てを狂わせていたのだ。
やれやれ登記よりも人間関係の方が複雑だ
法律は正しい。書類も正しい。
でも人の気持ちが、それらを歪める。
「やれやれ、、、こっちは正直に仕事してるだけなんだけどな」ため息が止まらなかった。
元野球部のカンが騒ぎ出す
あのときのサイン盗みの感覚が蘇る。
相手の動きの先を読む、あの集中力が。
僕は再度、提出書類の順番を入れ替えて読み直した。
カギは現場ではなく役所にある
現場検証なんて必要なかった。
すべては登記申請書と添付書類の中に、答えがあった。
役所の受付印の日付が、本来の元本確定日より一日早かった。それが決め手だった。
サトウさんの推理とシンドウのうっかり
「つまり、印鑑証明を偽造したのは、弟の方ですね」
サトウさんはあっさりと答えを言ってのけた。
僕は、うっかりお茶をこぼした。まあ、いつものことだ。
重なりすぎた偶然の意味
確定日、通帳、遺言、すべてが一見整っていた。
だが、それぞれが「偶然」ではありえないタイミングで結びついていた。
偶然は三つ重なれば必然となる。それが今回の真実だった。
ダブルチェックで見つけた嘘
僕が見落とした細かいズレを、サトウさんは一つ一つ拾っていた。
二人で確認することの意味を、あらためて実感する。
「シンドウさん、もうちょっと慎重にやってください」と塩対応も忘れない。
真犯人は誰だったのか
弟は全てを認めた。兄を出し抜くために、父の死後すぐに遺言をすり替えたのだ。
元本確定日を一日だけ操作し、相続財産を自分に集中させるために。
だが、司法書士とその事務員の目は誤魔化せなかった。
数字が語る嘘の記憶
通帳の数字は残酷だった。
父の死後も続く入金記録が、全てを物語っていた。
それは「まだ生きている」ように見せる偽装だったのだ。
確定日に仕込まれた細工
申請書の日付、印鑑証明、遺言状の開封日。
全てが「確定日」を中心に操作されていた。
それは、まるで時限装置のような、精密な犯罪だった。
全ての帳尻が合った瞬間
依頼人の兄に全てを説明し、訂正登記を進める。
公正証書遺言の再検証も完了し、帳尻は合った。
ただ一つ、父親の想いだけが、記録には残らなかった。
事件が終わっても登記は続く
役所へ提出する補正書類は山のようにある。
事件が片付いたあとも、僕たちの仕事は終わらない。
やれやれ、、、まったく、司法書士ってやつは地味に大変だ。
シンドウのささやかな勝利
帰り道、商店街のベンチに座り、缶コーヒーを飲んだ。
目を閉じると、草野球の声が遠くから聞こえてくる気がした。
「また明日も、登記と格闘だな」僕は小さく笑った。