愚痴でつながっていた関係が消えていく感覚
以前は昼休みになると、自然と誰かと愚痴をこぼし合っていた。登記の申請がうまく通らなかったとか、法務局の対応がどうだったとか。そんな話を笑いながらできるだけで、ずいぶん救われていた気がする。今はというと、そもそも誰かと一緒に昼をとることがない。事務員は時間通りに休憩し、私は事務所でコンビニのおにぎりを片手に書類をチェックする日々。忙しさに追われているから、と言い訳しているが、本音ではちょっとした雑談が恋しい。
昼休みに交わしていたささやかな毒
昔、同じ事務所にいた先輩司法書士との昼休みは、今思えば心の栄養だった。あの人は毒舌だったけど、的を射ていて、こちらもつい本音で愚痴を返していた。ふたりでうどんをすする昼、書類のミスを笑い合うだけで、どれだけリフレッシュできたか。あの頃のやりとりがなければ、正直今ここまで続けられていなかったかもしれない。愚痴はネガティブなだけじゃない。共有できることで、前向きに切り替えるきっかけにもなっていた。
「わかるわかる」が癒やしだった頃
「あーそれ、あるある」「うちも昨日やられたわ」――そんなひと言で救われた日が何度あっただろう。今の職場では、そういう共感の瞬間が本当に減った。事務員に話しても、申し訳なさそうな顔をされてしまう。愚痴の内容が重すぎるのか、立場が違うからか。たった一言で「自分だけじゃない」と思える、それだけで疲れが吹き飛んだ日々が、なんとも懐かしい。
事務所の一角で肩を落とす時間が日常だった
時には書類棚の前に腰を下ろして、ため息と一緒に「もうイヤになるなあ」と漏らすと、誰かが「今日もやったね」と笑いながら声をかけてくれた。そんな時間は、成果も何もないけど、自分を立て直す大事なクッションだった。今は誰もいない事務所の中で、ただ椅子の背にもたれて一人きり。吐き出す相手がいないと、ため息も小さくなるもんだ。
愚痴を言わなくなったのは成長か諦めか
最近、ふと気づくと愚痴そのものをあまり言わなくなっていた。忙しさのせいか、疲れているからか、それとも単純に「言っても仕方ない」と悟ってしまったのか。言葉にしないことで、自分を守っているようで、どこか感情を麻痺させているような気もする。成長と見るか、諦めと見るか、その境界線は意外と曖昧だ。
愚痴をこぼす余裕がなくなっただけかもしれない
朝から晩まで、やるべき業務に追われていると、誰かと話すという行為そのものが贅沢に思えてくる。以前は、仕事の合間に「ちょっと聞いてよ」と言える時間があった。でも今は、電話が鳴れば即対応、登記の期限があればすぐ作業。気づけば、愚痴を言う“余裕”がなくなったのかもしれない。感情を後回しにするクセが、少しずつ心を蝕んでいるような気がする。
言葉を飲み込むクセが身についてしまった
「言ってもどうせ変わらないし」とか「聞いてくれる人もいないし」とか、自分で言い訳を作って、言葉を飲み込むことが増えた。昔の自分だったら絶対に口にしていたような一言を、今は何も言わずに処理してしまう。それが大人になることなのか、あきらめの始まりなのか。黙って乗り越える強さも必要だけど、誰かに聞いてもらう弱さも、きっと大事だった。
気づけば「ひとりごと」だけが増えていた
最近、自分でも驚くほど独り言が増えた。プリンターの前で「あ〜紙詰まりかよ」とか、ファイルを探しながら「どこ置いたっけなあ」なんてつぶやいている。以前なら誰かが笑って「またやってるね」と返してくれた。でも今は返事がない。ただ自分の声が静かに空間に漂って、そして消えていく。なんだか、自分自身とだけ会話しているような日々だ。
事務員との距離感がもどかしい
今の事務員はとても真面目で丁寧な人だ。ただ、それだけにこちらが気を遣ってしまって、どうにも雑談や愚痴の一つもこぼしにくい。立場の違いもあるし、年齢も離れている。だからこそ、無理に近づいてもいけないような、そんなもどかしさがある。人がいるのに孤独というのは、なかなか応える。
愚痴を言える関係性にはまだなっていない
こちらとしては少し気を緩めたい場面でも、彼女にとっては“仕事中の上司との会話”でしかない。無理に馴れ馴れしくするのも違うと思い、結局当たり障りのない会話だけが繰り返される。いつかは気兼ねなく笑い合える日が来るのかもしれないが、少なくとも今はまだ、愚痴をこぼせるような関係にはなっていない。
気を遣うばかりで深まらない会話
「ありがとうございます」「助かりました」など、仕事上のやりとりは問題ない。でもそれ以上に踏み込んだ会話をしようとすると、なんだか空気が固まる。こちらも気を遣って、言葉を選びすぎてしまうのが原因かもしれない。世代の違いなのか、私自身が“上司”になってしまったのか。深まる気配のない距離感が、よりいっそう孤独を強めていく。
孤独な現場で心の置き場所を探す
結局、書類と向き合う時間が一番長い。人と接するのは一瞬で、あとは黙々と作業を進める毎日。そんな生活の中で、心の置き場所をどこにするかは、自分で見つけるしかない。音楽を流してみたり、観葉植物を置いてみたりと、小さな工夫はしているが、それでもふとした瞬間にぽっかりと空白が広がる。
仕事は山積みでも誰かに話す時間がない
忙しいことはありがたい。でもその“ありがたさ”に甘えて、誰かと話す時間を削り続けてきた。気がつけば、話す力そのものが鈍ってきている。愚痴ひとつ言えないことが、逆にストレスになっていることに、ようやく最近気づいた。話す相手がいるというのは、贅沢なことだったのだと思う。
書類に向かって話してしまう自分がいる
「お前、なんでここ間違ってんだよ」――誰もいない事務所で、つい書類に話しかけてしまう自分がいる。これはもう職業病なのか、それとも孤独の副作用か。人間って不思議なもので、話す相手がいなくても、言葉を出さずにはいられないらしい。せめて紙だけでも、話し相手になってくれればいいんだけど。
それでも前を向くための小さな工夫
愚痴をこぼす相手がいない。だからといって、心まで閉じてしまえば、もっと辛くなる。そう思って、最近は自分なりのガス抜き方法を試している。紙に書いてみる、昔の同僚にLINEしてみる、週末にひとり温泉に行ってみる。どれも大したことではないけれど、それだけで少し気が楽になるから不思議だ。
メモ帳に愚痴を書くという習慣
最近、メモ帳に「今日のモヤモヤ」を書くようにしている。たとえば「また法務局が電話折り返してこなかった」とか、「スキャンの調子が悪い」とか、そんな些細なこと。でも書くだけで少しスッキリする。誰にも見せるわけじゃないから、遠慮もいらない。言葉にして吐き出すことが、やっぱり大事なのかもしれない。
かつての同僚とのLINEに救われる夜もある
ふと夜中に、昔一緒に働いていた先輩にLINEを送る。「今もバタバタですわ」って送ると、「そっちもかー、俺もだよ」って返ってくる。それだけで、なんだかホッとする。もう一緒に働いているわけじゃないのに、不思議とあの頃の距離感がそのまま残っている。ほんの数行のやりとりで、眠りが少しだけ深くなる気がする。