事件の始まりは一本の電話から
その朝、いつも通りサトウさんが淹れてくれたコーヒーを口にしたところで、事務所の電話が鳴った。受話器を取ると、どこか震える声の女性が「登記のことで相談があります」と言ってきた。何でも、父が亡くなり、遺産整理を進めていたところ、登記簿におかしな点があるのだという。
話を聞く限り、ただの名義変更ミスか、あるいは旧住所が残っているだけの可能性もあった。だが、彼女が言った最後の一言――「その土地、実在しないんです」――が、妙に耳に残った。
朝の静寂を破る依頼人の声
電話の主は森山という30代の女性で、声には不安がにじんでいた。亡父の所有していた土地の登記簿謄本に、存在しない地番が記載されているというのだ。そんなことがあるのかと訝しみつつも、僕は資料を預かる約束を取り付けた。
「変な話ですね」とサトウさんが小さくつぶやく。「ミステリー漫画みたいに、存在しない住所に屋敷が建ってたりして」
僕は苦笑しながらも、どこか引っかかるものを感じていた。
登記簿に記された不可解な事項
森山さんが持ってきた登記簿謄本を見て、僕は思わず眉をひそめた。確かに、地番は「五丁目三十三番地」。だがその地区にそんな番地は存在しない。地番整理前のものかとも思ったが、年月日が新しい。
しかも、登記原因が「所有権移転(遺贈)」になっており、平成の終わり頃に処理された形跡がある。つまり、これは父親の生前に、誰かに土地を遺贈したという話になる。
住所が示すはずのない場所
地図を調べてみても、該当の場所には公園と古い井戸があるだけだった。番地を飛ばして登記するケースはまずない。しかも、現地写真を見せてもらったが、まるで長年人の手が入っていないかのように荒れ果てていた。
「どう考えてもおかしいですね」とサトウさんが言いながら、謄本の印影を虫眼鏡で眺めていた。「これ、印影がズレてます。スキャン前の偽造かも」
僕の背筋に、ひやりとしたものが走った。
現地調査に赴くシンドウとサトウ
翌日、僕とサトウさんはその土地を実際に訪れた。地方都市のはずれ、小高い丘の麓にあるその場所は、確かに登記上の住所に該当するエリアではあるが、三十三番地など存在しない。
唯一、ぼろぼろの古い門が一つ、木々に囲まれて立っていた。その門の先には、誰かが住んでいたらしい家の残骸があった。
古びた一軒家と開かずの門
家はすでに廃墟と化していたが、不思議なことに玄関の表札だけが新しかった。「森山」と書かれている。依頼人の姓と同じだ。だが彼女に聞いたところ、そんな家のことはまったく知らないという。
「これは……座敷わらしでも住んでたんですかね」
サトウさんの軽口がなければ、背中の汗が止まらなかったかもしれない。
被相続人の過去を洗い出す
森山氏――つまり依頼人の父親――の戸籍を洗い直すと、10年前に一度養子縁組をしていた記録が出てきた。しかしその養子の名は、すぐに除籍されていた。
その人物こそが、偽の遺贈登記の受贈者だったのだ。
遺言書に潜む二つの筆跡
さらに出てきた遺言書には、二種類の筆跡が混在していた。明らかに途中から筆跡が変わっている。しかも、不自然なタイミングで文章が切れていた。
「途中で誰かが加筆したんじゃないですか?」とサトウさんが言う。「しかも、もともとの文章は全然違う内容だったような」
このあたりから、事件は完全にサザエさん的日常から、『金田一少年』や『怪盗キッド』の世界へと傾いていく。
登記手続に潜む改ざんの痕跡
法務局での調査で、当時の担当者に事情を聞くことができた。だが彼は「確かに手続きをしたが、書類はきちんとしていた」と主張する。
だが、資料の受付日と登記完了日が不自然なほど近く、まるで「通すこと」が前提だったかのように見えた。
登記官の記憶と不自然な空白
件の登記官はすでに退職していたが、メモ帳に残された走り書きには「森山 依頼注意」とあった。それは他職員への引き継ぎか、あるいは警戒のサインだったのか。
「もしかして、内部に協力者がいたのかも」
サトウさんの目が鋭くなった。
かつての相続争いの傷跡
森山氏には、20年前に遺産を巡って絶縁した兄がいた。その兄の息子が、今回の偽造に関わっていた可能性が浮上した。動機は「本来の相続権を取り戻すため」だった。
その背景には、長年積もった確執と嫉妬があった。
もう一人の相続人の行方
その甥にあたる人物は、東京で行方をくらましていたが、数年前に改名して戻っていたことが分かった。その名義で、謄本に記載された「遺贈」が行われていたのだ。
「やれやれ、、、まるで昼ドラの再放送ですね」
僕は頭をかきながら、元野球部時代にバットでサインを見逃したときのような後悔を感じていた。
サトウの冷静な分析と推理
サトウさんは、再度すべての書類を並べて比較し始めた。そして、ある文書の印刷ズレに気づいた。それが登記識別情報通知だった。
「これはコピーじゃない。偽造原本です。しかも、紙の色が微妙に違う」
その観察眼に、思わず感心してしまった。
赤いボールペンが示す真実
さらに彼女は、裏面に走り書きされた「赤ペン」の跡を見つけた。それは法務局職員が内部メモ用に書いたもので、後にこっそり処分されたはずの紙だった。
そこに記されていたのは「本人確認書類に違和感アリ 念のため保留検討」との文字だった。
その“念のため”が無視され、登記が完了していたのだ。
シンドウの直感が導いた突破口
僕はふと、5年前の別の案件を思い出した。あの時も、登記情報に存在しない地番が使われていた。そして、それに関わっていた人物の名前が――。
「これ、同一犯かもしれません」
確信に近い直感が、僕の背中を押した。
地番に隠されたもう一つの物件
実は、今回問題となっていた地番には、過去に公図上だけ存在していた「仮想地番」があった。災害時の避難所指定のために一時的に付されたものだった。
それを悪用して、本来存在しない登記簿を作り、偽の相続を成立させたのだ。
真犯人の動機と告白
追い詰められた犯人は、すべてを白状した。父の兄――つまり伯父――の息子として、正当な権利があると思い込んでいた。だが現実には、その権利はすでに消滅していた。
「父が死んだ後も、何ももらえなかった。せめて…土地だけでも…」
そのつぶやきが、逆に悲しみを際立たせていた。
一通の通知が引き金となった悲劇
全ての発端は、被相続人が出した一通の通知だった。「すべてを娘に残す」と書かれていたその通知が、彼の心に火をつけたのだ。
しかし、法と正義は静かに、確実に機能した。
解決とその後の静けさ
事件は終わり、正しい登記が完了した。森山さんの目には涙が浮かんでいたが、それは安堵の色だった。
僕はふと空を見上げてつぶやいた。「やれやれ、、、たまには平穏な登記手続きがしたいもんだな」
やれやれと空を見上げるシンドウ
サトウさんは無言で事務所に戻り、そっとファイルを片付けた。「次の相談、11時です」
僕は肩を落としつつ、また新たな謎と向き合う覚悟を決めたのだった。