序章 不意に訪れた依頼人
午後三時過ぎ、事務所のドアが軋んだ音を立てて開いた。 そこには、よれよれのコートを着た中年男性が立っていた。 名刺も差し出さず、彼は小さな声で「土地の登記のことで……」とだけ言った。
古びた戸籍謄本と一枚の図面
彼が差し出したのは、折り目だらけの戸籍謄本と、手書きの図面だった。 昭和の終わり頃に描かれたようなその図面には、今の法務局の記録とは微妙に異なる筆界が示されていた。 図面の端には、かすれた文字で「○○家墓地」と書かれている。
奇妙な依頼内容
「この土地の名義を、私の名に戻したいのです」 男はそう言って、無表情のまま僕を見つめた。 普通は“変えたい”と言うものだが、“戻したい”という表現に、引っかかりを覚えた。
空き家の名義変更の相談
聞けば、その土地には今はもう誰も住んでいない古家が建っているらしい。 空き家対策で行政が動く前に、自分のものにしておきたいのだという。 だが登記簿を見る限り、男の名前はどこにも載っていない。
サトウさんの冷静な疑問
「……この人、相続人じゃありません」 パソコンの前にいたサトウさんが、無感情に言い放った。 彼女はすでに戸籍を辿り、男が血縁関係にないことを突き止めていたのだ。
登記簿上の矛盾を見逃さない
登記簿の権利部をもう一度見ると、確かに不自然な名義変更がなされていた。 しかも、その変更の原因が「贈与」になっているのに、証明情報がない。 何かが、おかしい。
手がかりは過去の所有者
僕は登記簿を一枚一枚めくりながら、過去の所有者を調べていった。 どうやらこの土地は、ある一族の共有名義だった時期が長く続いている。 そして十年前、突然一人の名義にまとめられていた。
権利関係に潜む罠
その名義統一のタイミングが絶妙だった。 法改正の前日、手続きがなされた形になっていたのだ。 誰かが意図的に、境界線と所有者の整理を図った可能性がある。
元所有者の足跡
元の所有者の一人は、すでに亡くなっていた。 その孫にあたる人物が、SNSで絵画展の告知をしていたのを偶然見つけた。 僕は思い切ってその会場まで足を運んだ。
失踪の真相と空白の年月
孫は、「祖母は家族と揉めて家を出た」と語った。 そしてその後、土地のことには一切関わらないようにしていたらしい。 登記上の贈与が行われた頃、祖母は意識不明の状態だったという。
謎の相続登記
ある日、法務局の調査資料に紛れて一通の写しが出てきた。 それは、数年前に提出された“自筆証書遺言”の検認済通知だった。 だが、そこに記載された印鑑が、どれとも一致しなかった。
申請された記録の違和感
申請された相続登記は、形式的には整っていた。 だが、僕とサトウさんの目はごまかせない。 “正しすぎる”登記は、むしろ危険なのだ。
登記簿が語る家族の分裂
一族の中で誰かが、自分だけが土地を手に入れるために偽造した。 しかしそれは、祖母の死の直後に行われたものだった。 まるで、サザエさんの波平が三文芝居で財産を独占しようとしたような古臭い構図だ。
争族ではなく創作か
結果的に、それは“争族”ではなく、“創作”だった。 自筆遺言の形式をまねて書かれた文書。 誰かが自分の都合のいいように家系図を書き換えたのだ。
怪しい司法書士の影
調査を進めていくと、一人の司法書士の名前が浮上した。 三年前に懲戒処分を受けていた人物だ。 その人物が、偽の遺言と登記申請を手引きしていた可能性が高い。
同業者の名が出たときの空気
「これ……たぶんあの“ナカムラ”ですね」 サトウさんが珍しく苦々しい表情を見せた。 どうやら、彼女もその名前を知っていたようだ。
やれやれ ここからが本番か
僕は机に肘をつき、深いため息をついた。 「やれやれ、、、また面倒なことになった」 だが、ここまで来てしまった以上、最後まで見届けるしかない。
公図と現地との微妙な違い
現地を確認すると、公図とは微妙に筆界がズレていた。 塀の位置が不自然に内側に寄っている。 誰かが意図的に土地の境界を変更した痕跡があった。
法務局での静かな勝負
訂正申請書と意見書を用意し、法務局の調査官に説明を求めた。 一言一句、気を抜けないやりとりだった。 だが最後には、こちらの指摘が受理された。
古い申請書の中の偽筆
調査官が黙って渡してくれたコピーには、明らかな偽筆があった。 僕が指摘した通り、“筆跡が繋がっていない”署名だった。 それがすべての証拠となった。
真相にたどりつく鍵
結局、依頼人の男は親族でもなんでもなく、 偽の戸籍と図面をもとに土地を奪おうとした詐欺師だった。 司法書士ナカムラがその片棒を担いでいたのだ。
登記原因証明情報の抜け落ち
登記原因証明情報の記載がなかったのは、提出義務がなかった当時の制度の抜け穴だった。 だが、それを悪用すればいつかは破綻する。 僕とサトウさんは、それを見逃さなかった。
サトウさんの一言が導いた真実
「家系図、逆じゃないですか?」 サトウさんのその一言で、すべての辻褄が合った。 男は“孫”どころか、まったくの他人だった。
全ては遺言書の封筒にあった
その後、真の相続人が持っていた古い封筒の中から、正式な遺言書が出てきた。 それは公正証書遺言だった。 それがこの一件の決定打となった。
依頼人の正体と動機
依頼人の男は、過去に土地の持ち主の家で働いていた使用人だった。 「自分の人生を奪った家だ」と呟いていた。 復讐心から、嘘の依頼を重ねていたのだ。
偽りの血縁を装った復讐劇
ただの相続登記が、見事なまでの復讐劇へと変わっていた。 男は、最初から全てを仕組んでいた。 だが、登記簿には嘘は書き込めない。
結末 登記簿に刻まれた証言
登記簿の修正は完了し、真の相続人へと名義は戻された。 男は詐欺未遂で逮捕されたという。 今日もまた、登記簿が語る“事実”が、一つの嘘を打ち砕いた。
家は静かに誰のものでもなくなった
そしてその空き家は、取り壊しが決まった。 誰のものでもなくなったその場所は、ようやく静けさを取り戻した。 僕は、ちょっとだけ空を見上げた。