気づけばまた話をそらしていた
結婚の話になると、自然と話題を変えてしまう癖がついている。自分でも気づかないうちに、当たり障りのない天気の話や仕事の話にすり替えているのだ。別に恥ずかしいわけじゃない。だけど、どこかで「まだです」と答えるのが面倒くさくなっているのかもしれない。誰かに責められているわけでもないのに、なぜか気まずさだけが残る。たとえ話の流れであっても、「結婚」という言葉が出てくると、心がスッと逃げ出す。気づけばまた、話題は仕事か野球の話に変わっていた。
親の前で何気なく始まる「そろそろどうなの?」
年に数回帰る実家。田舎の空気は変わらないけれど、母のまなざしだけは年々重くなる。「そろそろどうなの?」「いい人いないの?」この二言が出るまで、10分もかからない。聞かれても困るのだ。別に彼女がいるわけでもないし、婚活アプリを使ってるわけでもない。返事を濁すたびに、母がため息をつく。そんなやりとりを毎回繰り返している。そろそろ自分も慣れていいはずなのに、どうも慣れない。
休日の実家での沈黙のプレッシャー
ある正月、こたつでみかんを食べながらテレビを見ていたとき、親戚のおばさんがふいに「アンタ、結婚せんの?」と言った。みんなが笑う中、僕だけが箸を止めた。別に怒っているわけじゃない。でも、心のどこかにチクリと刺さる。「仕事が忙しいから」と答えても、もう誰も納得していないのが空気でわかる。言葉よりも、その沈黙の圧が苦しい。
「誰かいないの?」という問いへの反射神経
この質問に対して、いかに自然に話を切り替えるか。ある意味、反射神経の勝負だ。「そういえば、おばさん最近ゴルフ行ってるんですか?」と聞き返したら、あっさり話は逸れた。でもそのたびに、自分が小さくなっていくような気がする。話をそらすことに慣れていくほど、いつのまにか自分の本音からも距離ができてしまう。
職場でも油断できない「結婚してるんですか?」
司法書士という職業は、比較的信用されやすい肩書きなのか、「結婚されてるんですか?」と聞かれることが多い。特に新規の顧客や取引先で初対面の場だと、雑談の一環で聞かれる。悪気はないのだと分かっていても、答えるのが億劫になる瞬間がある。「いえ、独身です」と答えると、ちょっと驚かれるか、やたら納得されたりする。どっちも地味に傷つく。
司法書士という肩書きと家庭のイメージ
司法書士というと、安定していて、堅実で、真面目で、当然「家庭もきちんとしていそう」と思われがちだ。だからこそ、独身と答えるとギャップがあるのだろう。中には「意外ですね」と言われることもある。そう言われると、逆に「じゃあ俺、結婚してなきゃおかしいのか?」と、変な反発心が芽生えてくる。でもすぐ、「いや、単に老けて見えてるだけかもな」と自己完結する自分もいる。
答えるたびに感じる自分の空虚さ
何でもないやりとりの中で、自分だけが引っかかっているのかもしれない。でも、ふと一人になったときに、そういった小さなやりとりが心に残っていることがある。「独身なんですね」と言われただけなのに、まるで何かを責められたように感じてしまうのは、自分の中に引け目があるからだろうか。その空虚さが、ふいに夜の事務所で思い出される。
話をそらすことが癖になっていた
気づけば、誰かに何かを聞かれたとき、自然と別の話題を投げ返すようになっていた。天気の話、最近観た映画、あるいは業務の忙しさ。話をそらすのは、攻撃でも防御でもなく、もはや習慣に近い。話題を避けることで、自分自身と向き合うことも避けているのかもしれない。そう思うと、少し情けなくなる。
笑って流しているうちに本音を隠すように
最初は照れ隠しだった。「まぁそのうち」「ご縁があれば」そんな便利な言葉でごまかしてきた。でも、笑っているうちに、本当に自分の気持ちがどこにあるのか分からなくなってきた。自分は本当に結婚したいのか?誰かと一緒に暮らしたいのか?それとも、今の生活に満足しているのか?笑いで包んだ本音は、もうどこにあるのか見えなくなってきた。
「まぁそのうちに」と言い続けて10年
「そのうちに」と言っていたのは30代前半だった。気がつけば、もう45歳だ。いつの間にか、「そのうち」は「いつか」に変わり、いまでは「まぁ別に」になっている気がする。昔、野球部の仲間で集まったとき、「お前だけ独身だな」と言われて笑ったけど、内心ではちょっと焦っていた。気づけば、時間だけがどんどん過ぎていく。
結婚だけが人生じゃないと自分に言い聞かせる
そう、何度も自分に言い聞かせてきた。結婚だけが人生じゃない。仕事に打ち込む人生だって立派だし、ひとりの時間も悪くない。でも、夜のコンビニで家族連れを見かけたとき、心がちょっとザワつくのも事実だ。言い聞かせるたびに、自分が少しずつ強がっていっているような気もしている。
それでも自分の人生は続いていく
結婚しようがしまいが、日々は過ぎていくし、仕事もある。登記も期日も待ってはくれない。毎朝のルーティンをこなして、事務員さんに小言を言われながら、何とか事務所を回している。そんな日常の中でも、ふと立ち止まってしまうときがある。自分は本当にこれでよかったのか、と。でも、そんな疑問さえ、今日の忙しさがあっさり飲み込んでいく。
司法書士として生きていく覚悟
この仕事を選んだのは、偶然でもあり、覚悟でもあった。誰かに言われたわけでもないけれど、自分で決めてここまできた。そう思えば、それなりに誇らしい。たとえ結婚していなくても、自分の仕事に胸を張れるなら、それはそれで十分だと思いたい。いや、思わないとやっていけない日もある。
この道を選んだからこその誇りもある
若いころの自分が見たら、いまの自分をどう思うだろう。誇りに思うか、それとも「なんだかさびしい人生だな」と言うのか。だけど、誰かの登記が無事に済んだ日や、相続で揉めていた家族が少し笑ったとき、自分の仕事にも意味があったと思える。そういう瞬間が、少しずつ自分を支えている。
一人だからこそできたこともある
時間の融通、仕事への集中、責任の重さも含めて、一人だからできたことも多い。誰かに合わせることが苦手な自分には、もしかしたらこの形が合っていたのかもしれない。でも、それでもやっぱり、人肌恋しい夜はある。結婚しなかったことを後悔はしていないけれど、「もしあのとき」が頭をよぎる日は、きっとこれからも続くだろう。
いつか話をそらさずに笑える日がくるかもしれない
いまはまだ、自分の話をするのが怖い。でも、いつか自然に「独身です」と笑って言える日が来るのかもしれない。誰かと比べることなく、自分の人生を語れるようになったとき、話をそらす必要なんてなくなるのだろう。そんな日が、10年後か20年後か分からないけれど、来たらいいなと思っている。
それまではそっと心を守っていく
誰かと同じように生きられないからといって、間違っているわけじゃない。自分を守るために話をそらすのも、立派なサバイバルのひとつだ。無理に答える必要もないし、無理に笑う必要もない。自分のペースで、自分の人生を歩いていく。その道が少し寂しくても、それでも前に進むしかないのだ。
話をそらすのも、自分を守る方法のひとつ
話をそらしてもいい。逃げてもいい。それがいまの自分にとって必要な防御なら、胸を張ってそうすればいい。誰にも迷惑をかけていないのだから。無理をして笑うより、正直に黙っているほうが、少しだけ自分を大事にできる。そんなふうに思えるようになったのは、きっと司法書士という仕事を通して、人の弱さや強さに触れてきたからなのだろう。