序章 忙しない事務所に届いた一通の封筒
八月の蒸し暑い昼下がり、事務所に扇風機の唸り声だけが響いていた。昼ご飯を食べた後の微妙な眠気を吹き飛ばすように、サトウさんが机に「ドンッ」と封筒を叩きつけた。分厚く黄ばんだ封筒には、滲んだ筆跡で「至急」と書かれている。
「シンドウ先生、また怪しい相続案件ですね。しかも手書きの封筒、昭和かっての」とサトウさんがぼやく。封筒の中には、数枚の戸籍謄本と、メモのような遺言が入っていた。
簡単そうに見えた相続登記の依頼
依頼内容は、一見すると単純な相続登記。亡くなった男性の土地建物について、娘が単独で相続するという内容だった。相続人の数も少ない。こういうときこそ、何かある。
「まるで最終回直前のサザエさんみたいな静けさだな」そうつぶやいてしまった。だいたい、こういう時に限ってトラブルが出てくるのが我々の世界の「お約束」だ。
封筒に込められた違和感
メモにはこう書かれていた。「長男タケルには会っていないが、財産は娘のユミに譲る。」妙な言い回しだ。タケルという名が戸籍上には見当たらない。存在していないはずの人物に言及している。
ここで少し鳥肌が立った。いや、冷房が効きすぎたのか。いや、冷房なんてない。これは間違いなく「案件が動き出す」寒気だ。
消えた戸籍の謎
市役所から取り寄せた戸籍をじっくり読み込んでみる。そこにはユミの名前と両親の記載だけ。だが、妙に余白が広く、不自然な改製日がある。まるで何かを「消した」ような跡。
「これ、間違いなく誰かが手を加えていますね」とサトウさん。彼女はこういうことに敏感だ。しかもその改製は、ちょうど二十年前。タケルという名の存在を消すには、十分な年月だ。
戸籍謄本に抜け落ちた人物
あえて「存在していない」ように記録を残すには、法的手続きが必要だ。つまり、誰かが「タケルの存在を隠すために」意図的に戸籍をいじった可能性がある。だとすれば、それは誰だ?
「やれやれ、、、また厄介なパターンだな」と思わず口をついて出た。これはただの相続登記じゃない。過去の影が深く絡んでいる。
法定相続人に名のない長男
仮にタケルが本当に存在したのなら、彼も当然相続人だ。だが、現在の戸籍にはその痕跡すらない。ユミが単独で相続するという主張は、法的には不完全だ。
「消えた相続人」を追うしかない。いや、こっちが怪盗ルパンなら、そのタケルって男は、逃げきった怪盗キッドってとこか。
古びた家に潜む過去
現地調査を兼ねて、対象不動産の家へと足を運ぶ。木造二階建ての古びた家。庭には草が伸び放題で、郵便受けには何枚もチラシが詰まっていた。
隣家の老婦人が声をかけてきた。「あそこのお兄ちゃん、昔いたわよ。なんか急にいなくなってねぇ…」この証言で、存在を完全に否定できなくなった。
売買を拒んだ隣人の証言
老婦人は、かつてその家を買いたいと持ちかけたことがあるという。しかし「長男が戻るかもしれない」と理由をつけて断られたらしい。やはり、家族の中では「消えた長男」の存在が生きていたのだ。
これは司法書士の仕事を超えているかもしれない。だが、引き下がるわけにもいかない。ここでやめたら、ルパンに金庫のカギを持って逃げられたようなものだ。
相続放棄のウラにある出来事
役所で過去の書類を漁っていると、ユミがかつて相続放棄の手続きをしていたことが判明した。理由は不明。だが、わざわざ放棄しておきながら、今回になって単独相続を希望するのは筋が通らない。
そこには、何かしらの「覆したい過去」があるに違いない。これは感情の問題だ。法の論理ではなく、人間の闇の部分。
サトウさんの仮説
「戸籍が一度改製されていて、タケルさんの記載が消えてる。その時期にユミさんが相続放棄していた。そして今はその放棄をなかったことにして、相続を進めたいってことですよね?」
サトウさんの推理は冷徹かつ的確だ。彼女が言うには、「タケルは生きていて、今もどこかで名を変えて生きてる」可能性があるという。もはや司法書士事務所の域を超えて、探偵事務所のようだ。
過去の登記との矛盾
古い登記事項証明書を取り寄せると、そこには一度だけ「タケル」の名前が記載された履歴があった。やはり存在していた。誰かがあとからその登記を変更した。つまり、意図的に「存在をなかったことに」したのだ。
誰が、なぜ、そんなことをしたのか? 登記簿は、ただの紙切れではない。そこには、家族の記憶と選択が記されている。
真相への糸口
探し当てたのは、県外に住む元町内会長の証言だった。「あの子は親父さんと揉めて、名前を変えて出て行ったよ。」これで、現在の住民票と照合できる可能性が出てきた。
住民票コードからたどると、見知らぬ名前の中年男性が該当。職業は「建設作業員」。戸籍の附票を取り、ついにその所在を特定した。
埋もれていた養子縁組の痕跡
さらに驚くべきことに、その男性は一度養子縁組された記録があった。つまり、戸籍がいったん分断された形跡がある。その後、また戻された。これによってタケルの戸籍はほぼ見えなくなっていた。
制度の隙間を縫って消えた存在。怪盗のような離脱劇。これは司法書士の仕事の枠を完全に飛び越えていた。
消えた相続人の正体
見つけ出した男性に面会する。名前は今は違うが、間違いなくタケルだった。彼は苦笑しながら言った。「あの家には戻りたくなかった。だから全部放棄した。だけど…妹が困ってるなら、話は別だ」
不器用だが、家族思いの男だった。すべてを記録に残さず、過去も未来も自分の中で完結させようとしたのだろう。
親族を名乗る別人の出現
ところが、登記申請直前に「自称いとこ」が現れた。「自分にも権利がある」と言い張るが、書類を精査した結果、完全な虚偽申請だった。危うく、詐欺的登記になるところだった。
やはり、登記を巡るドラマには必ず「裏」がある。甘く見てはいけない。
司法書士の決断
最終的に、タケルが正式に相続放棄を再度行い、ユミ単独での登記が成立した。戸籍の補正、申述書の作成、そして数回の面談。すべてのピースが埋まった。
これは書類の上だけの手続きではない。心の整理も同時に行われた、いわば「司法のセラピー」だった。
登記申請書類の再構成
申請書には、ただの「不動産登記」として記されているが、その裏にこれだけのドラマがあったことを、誰が想像するだろう。僕は、静かにその書類に押印した。
紙一枚が、これほどまでに重いものだとは。やれやれ、、、まったく油断も隙もない。
最後に残ったもの
静かになった事務所で、僕は椅子にもたれかかった。サトウさんはもう次の案件に取りかかっている。彼女は、振り返らない。
僕は思う。戸籍や登記簿の向こうに、まだまだ知らない「人の物語」が眠っているのだと。そして、その物語を少しでも救えるなら、司法書士としての仕事は、意味があるのかもしれない。
遺産が導いた再会
後日、ユミから手紙が届いた。「兄と再会できました。先生のおかげです」そう書かれていた。二人の過去が和解した瞬間に、ほんの少しだけ立ち会えたことが、僕の心に小さな光を灯す。
また明日も、何かが届くだろう。その封筒の中に、また新たな謎が潜んでいるのだ。