確認ばかりして一日が終わるという絶望感
朝から晩まで、確認、確認、また確認。最初の頃は「慎重でいいことだ」と思っていたはずなのに、気がつけばそれが生活を蝕むようになっていた。「あの書類、念のためもう一度確認しておこう」と思って取りかかった作業が、次々に増殖していって、夕方には本来やるべきだった仕事が山積みに残る。何をしていたんだろうと自分に腹が立つけど、ミスしたときの恐怖を考えると、やっぱり確認せずにはいられない。こんな毎日、続けられるのだろうかと、ふと夜中に目が覚める瞬間がある。
書類の「念のため」に費やす時間
書類を提出する前に、最低でも3回は見直す。登記関係なら5回見直しても不安が残る。「この漢字、旧字体で合ってたかな」「この日付、間違ってないよな」「印鑑の押し位置、ズレてないか?」……。1回目で間違いを見つけ、2回目で直し、3回目で確認。そこまでしても「念のため、もう一度」と4回目に手を伸ばす自分がいる。気づけば昼が過ぎていて、ため息ひとつ。事務員の彼女が「もう大丈夫ですよ」と言ってくれるが、それでも信じきれない自分がいて、苦笑いで「念には念を」と返す。無意識のうちに、確認が仕事のメインになってしまっている気がする。
いつもどこかに不安が残る
いくら見直しても、「どこかにミスがあるかもしれない」という不安が完全に消えることはない。記憶力も完璧ではないし、注意力だって波がある。特に疲れている日なんかは、自分の記憶すら信用できない。「あれ、送付状ってちゃんと入れたっけ?」と帰宅後に気になり、事務所に引き返したこともある。何もミスがなかったと確認できたときの安堵感と、引き返す時間と労力の虚しさが、胸に重くのしかかる。それでも確認せずにはいられない。自分の手からミスが発生したら…と考えると、震えるほど怖いのだ。
完璧主義の裏にある「責任感」という名の呪い
私は昔から責任感が強いほうだった。特に司法書士という仕事を選んでから、その傾向はさらに強くなった気がする。「あの先生は間違いがない」と思ってもらうことが信用に繋がると信じていた。でもその「間違いのなさ」が、今や自分の首を絞めている。完璧を求めることは悪いことじゃない。でも、人間はミスをする生き物だという当たり前のことを、自分だけには許せなくなっていた。誰かに「それでもいいんだよ」と言ってほしいが、自分が誰よりも厳しく自分を追い詰めてしまっている。
「これでいいのか?」が口ぐせになっている
最近気づいたのだが、自分の口から一日に何回「これでいいのか?」という言葉が出ているだろう。書類を印刷する前、押印の後、スキャンしたあと、送信する前、いつでも不安がつきまとう。まるで呪文のように、毎日同じセリフを繰り返している。その度に確認し直すのだが、不安の正体が分からないから、終わりがない。事務所の空気も重くなる。事務員もきっと息苦しいだろうなと思いながら、それでもやめられない。安心がどこにも売っていないのだから。
自分を信じられない辛さ
一番しんどいのは、誰かではなく、自分自身を信じられなくなることだ。以前は「俺に任せておけば大丈夫だ」と心の中で思えていたのに、今は違う。「きっとどこかで見落としてる」「また迷惑かけるかも」——そんな声が自分の中で響き続ける。たった一つのミスで、依頼者の信頼がガラガラと崩れる現場を何度も見てきたからこそ、慎重になるのは当然だろう。でも、その慎重さが過剰になって、自己否定にまで発展してしまうと、日々が本当にしんどくなる。
事務員さんに確認を頼むときの罪悪感
確認地獄の中で、時々事務員さんに「これ、見てくれる?」とお願いすることがある。自分で何度も見たけれど、不安でしかたがない。誰かの目を借りたい。けれど、それを頼むたびに「またか…」という顔をされるのではないかという恐怖が頭をよぎる。申し訳なさと自己嫌悪が入り混じり、「ああ、俺はダメだな」と自分を責めてしまう。事務員は何も言わないけれど、その沈黙すら、時に自分への圧力に感じてしまうのだ。
ミスの代償が大きすぎる現実
この業界にいると、「ちょっとしたミス」が命取りになることが多すぎる。名前の漢字を一文字間違えた、印鑑を押し忘れた、日付がズレていた——たったそれだけで、依頼者に多大な迷惑がかかる。時には損害賠償にもつながる。司法書士という看板を背負っている以上、軽い気持ちで済ませられるミスなんて一つもない。その重みが、確認作業の泥沼へと私たちを引きずり込んでいるのだと思う。
登記の一文字が人生を狂わせる
以前、土地の名義変更で、依頼者の名前の一文字が旧字体になっていたことで、すべてやり直しになったことがある。こちらのミスではなかったが、責任の所在を明確にするのは難しく、結局私が平謝りした。相手にとっては大切な財産のことだから当然だが、そのときに感じた「震えるようなプレッシャー」は、今でも忘れられない。あれ以来、たった一文字にも過剰に敏感になってしまった。だが、それが「確認地獄」のはじまりだったのかもしれない。
「自分のせいかも」が頭から離れない
何かトラブルが起こると、まず最初に「自分がやったかも」と考える癖がついてしまった。他人のミスでも、自分に責任があるような気がしてしまう。自分にできることはなかったか、もっと早く気づけなかったか、と終わった後に反省の嵐。もちろん反省は大事だけれど、それが日常化してしまうと、ただただ自己否定のループになるだけだ。寝ても覚めても、自分を責め続けているような感覚がある。
失敗を共有できる仲間がいない
地方の司法書士事務所というのは、基本的に孤独だ。相談できる同業者が身近にいないし、気軽に話せる相手もいない。たまに研修で会う知人にそれとなく話を振ってみても、みんな「うちはそんなことないよ」と言うばかり。自分だけが弱いのかもしれないと、ますます口を閉ざしてしまう。同じような不安を抱えている人がきっといると思うのに、その声がなかなか聞こえてこない。
相談すること自体がリスクに感じる
「こういうことで悩んでるんだ」と誰かに打ち明けたとき、相手にどう思われるかが怖い。信用を失うのではないか、頼りないと思われるのではないか、そんな考えが頭をよぎって、言葉が出てこなくなる。特にこの業界では「完璧であること」が当然のように求められていて、「弱さ」を見せることが許されない空気がある。だからこそ、本音を語る場所が必要なのだと痛感している。
確認地獄から抜け出すには
このまま一生確認ばかりの毎日を続けるのかと思うと、気が遠くなる。だからこそ、少しずつでも抜け出す方法を模索しなければならない。完璧を捨てることは難しいが、100点ではなく80点でもいい、と自分に言い聞かせる日々。すべてをひとりで抱えずに、誰かに頼るという選択肢も持つべきなのだろう。
チェックリストの限界と罠
もちろんチェックリストは使っている。「やったかどうか」を確認するには便利なツールだ。でも、チェックリストにすべてを任せすぎると、かえって細かい判断を置き去りにしてしまうことがある。「リストにはOKって書いてあるけど、本当にこれでいいのか?」とまた不安がわいてきて、結局何度も見直してしまう。リストに頼りながら、心は頼りきれていない。そんな矛盾が、かえって自分を苦しめるのだ。
「安心のための確認」が新たな不安を生む
確認すれば安心すると思っていた。でも実際は、確認したことで「見落としてないか?」という新たな不安が生まれる。その不安を解消するために、また確認する。そして、確認することがルーティンになり、確認していないと落ち着かない体になっていく。安心のためにやっていたはずが、安心から遠ざかっているという本末転倒の状態に、自分でも気づいている。けれどやめられないのが苦しい。
頼れる人がいるというだけで救われる
ひとりで確認し続けるより、「これ見てもらえますか?」と頼める人がいるだけで心の負担がまるで違う。事務員さんや、信頼できる先輩、同業者との小さなやりとりが、精神的な支えになる。弱さを共有できる関係性は、とても大事だと感じている。確認地獄から少しでも抜け出すために、自分の殻を破る必要があるのかもしれない。「俺はひとりじゃない」と思える瞬間が、これからを変える一歩になる気がしている。
独りで抱え込むことの危うさ
結局のところ、自分の中だけで問題を完結させようとするから、どんどん追い込まれてしまうのだ。確認しすぎている自分を笑い飛ばしてくれる誰かがいれば、それだけで救われる。ミスを恐れるあまり、人との繋がりさえ拒んでしまうのは、本当に不幸なことだ。孤独の中で確認し続けるより、誰かと共有しながら前に進むほうが、どれだけ健全だろう。そう思いながら、今日も確認作業に向き合っている。