「趣味は何ですか?」の問いが一番つらい
飲み会や初対面の場で、「趣味は何ですか?」と聞かれると、いつも一瞬言葉に詰まる。質問した本人には悪気はないのだろうけれど、その何気ない一言が私の心を静かにざわつかせる。「仕事です」と答えたときの、あの微妙な空気。場を和ませるどころか、少し変な空気を生んでしまったような居心地の悪さに、毎回、胸がズーンと重たくなる。世の中にはキャンプとか料理とかランニングとか、堂々と語れる趣味を持った人がたくさんいる。でも、私にはない。ただ、目の前の仕事に追われているだけの日々なのだ。
世間話のつもりなんだろうけど
「趣味は何?」というのは、たぶん、話のきっかけづくりのようなものなんだと思う。アイスブレイク的な。でも、受け手の状況によっては、その一言が刃のように感じることがある。たとえば、趣味を持つ余裕もない日々を過ごしている人、仕事以外のことに心を向ける気力すらなくしている人にとって、その質問は「お前はちゃんと余暇を楽しんでるのか?」というプレッシャーにも似た響きをもって届く。私にとってはまさにそれだった。
趣味がない=人生に余白がないということ
趣味がないというのは、単なる時間の問題だけではない。精神的な“余白”がないのだと思う。余白があれば、何かに興味を持ったり、手を伸ばしてみたりすることもできる。でも、日々の業務に追われていると、その余白はどんどん削れていく。朝は書類、昼は相談対応、夜は登記の仕上げ。ふと一息ついたときには、もう21時を回っている。そんな日常の中で、「趣味」を考える余裕などどこにもなかった。
聞かれるたびに、自分の生活の貧しさを突きつけられる
「趣味は?」と聞かれると、そのたびに、自分がどれだけ偏った生活をしているかを突きつけられるような気持ちになる。別に趣味がなきゃいけないわけじゃない。でも、世の中の空気は「人生を楽しんでる人=ちゃんと趣味を持ってる人」みたいな風潮がある。そういう意味では、私は完全に“ダメな大人”の部類なのだろう。だからこそ、誰かにそう問われるだけで、劣等感が顔を出してしまうのだ。
「仕事が趣味なんです」と言ってしまう心理
そんな中で、私は何度か「仕事が趣味みたいなものです」と言ったことがある。言った後に自分で「うわ、なんかカッコつけてるみたいで気持ち悪いな」と思った。でも、それしか言いようがないのだ。実際、仕事しかしていないし、他に語れるようなことがない。だから、苦し紛れにそう答えるしかなかった。そして、相手が「すごいですね〜」と返してくれたとしても、その言葉がまた心にチクチク刺さる。
本当に好きでやってるわけじゃない
「仕事が趣味」なんて言うと、好きなことを仕事にして充実してる風に聞こえるかもしれない。でも違う。私はこの仕事が「できるから」「続けてきたから」やっているのであって、「好きで仕方がない」わけじゃない。やりがいを感じる瞬間もある。でも、趣味のように無心で楽しむという感覚とは、まったく別物だ。むしろ、生活のために割り切ってやっている部分も大きい。
他に言えることがないだけの空虚さ
本当は「仕事が趣味」なんて言いたくない。でも、他に何もない。テレビもあまり見ない、運動もしない、人と遊ぶこともない。だから苦し紛れにそう答えてしまう。そして、その言葉が出たとき、自分の中にある空っぽの箱が見える気がする。何も入っていない、何も育っていない、ただ“日々をこなすだけ”の時間。そこに気づいてしまうと、少し涙が出そうになる。
司法書士という職業の“趣味”を奪う現実
司法書士という仕事は、時間の管理が難しい。顧客対応は相手の都合に左右されるし、急ぎの案件も多い。しかも、地方で一人事務所をやっていると、自分が倒れたら終わりというプレッシャーもある。そんな状況では、趣味を楽しむための「ゆとり」などなかなか持てない。夕方から趣味に没頭する…なんて理想は、こちらの現実にはあまりに遠い。
平日は土日も気が抜けない
クライアントの都合に合わせると、どうしても土日にも予定が入ってしまう。実際、「平日仕事を抜けられないので土曜に相談したい」という声は珍しくない。そのたびに、私の休日はそっと消える。それも仕事のうちなのだろう。でも、土日くらいは…という気持ちも、正直なところある。何も予定のない日があっても、ずっと仕事のことを考えているのが現実だ。
趣味を育てる余裕があるのは一部の人
SNSを見ていると、みんな趣味を楽しんでいるように見える。旅行、ゴルフ、料理、写真…いったいこの人たちはどこにそんな時間があるんだろうと思う。いや、時間の問題じゃないのかもしれない。精神的な余裕、自分の生活をコントロールしている感覚。そういうものがある人が、きっと趣味を楽しめるのだろう。私には、その余裕がなかった。
ひとり事務所、ひとり対応、逃げ場なし
すべて自分で回しているから、誰かに任せるという選択肢がない。相談、書類作成、登記、請求、経理、雑用。すべて私がやる。事務員はいてくれるが、限られた範囲しか任せられない。だから、結局「全部やらなきゃ」になってしまう。これでは、心の中に趣味を育てる余白なんて、生まれるはずもない。
それでも「仕事が趣味」と言ってみた日のこと
ある飲み会の場で、いつものように「趣味は?」と聞かれた。私は「仕事です」と言って、無理に笑った。場が一瞬静まり、数人が苦笑いを返した。「真面目ですね〜」と言われたが、それ以上会話は広がらなかった。あの沈黙が、今も時々思い出される。別に気にする必要もないのに、なぜか自分を否定されたような気持ちになってしまった。
飲み会でそう言ったら、場が静まった
その時の沈黙は、まるで「この人、人生つまらなそう」と思われたかのようで、胸がきゅっとなった。相手はそんな意図はなかったかもしれない。でも、自分自身がそう思ってしまっていたのだ。「自分の人生、こんなに味気ないのか」と。だからこそ、その場が静かになったとき、自分が恥ずかしくてたまらなかった。
ウケ狙いかと思われて笑ってもらえた
別の機会に同じことを言ったときは、「ウケ狙いか!」と笑ってもらえたこともあった。それはそれで救いだった。でも、本音ではなかったので、笑いが収まった後に少しだけ虚しさが残った。「本当は…他に何もないだけなんです」と心の中でつぶやいた。誰にも言えないけれど、それが一番の本音だった。
でも、本当はちょっと泣きそうだった
帰りの電車で、ふと窓に映った自分の顔がやけに疲れて見えた。その瞬間、少し泣きそうになった。趣味を楽しむ余裕もない、誰かと過ごす時間もない、ただ仕事だけに追われている日々。自分で選んだ道とはいえ、あまりに孤独だった。そしてまた翌日、いつも通りの仕事が始まる。趣味もなく、誰かに語ることもない毎日が。
これから趣味を持つにはどうしたらいいのか
じゃあ、どうすれば趣味を持てるのか。そもそも「持たなきゃ」という発想が呪いなのかもしれない。大きなことを始めようとしなくていい。誰かに語れるような“立派な趣味”じゃなくていい。たとえば、夜に本を一冊読むことや、散歩ついでに空を見上げること。それだって「趣味」と言ってしまっても、誰にも責められはしないのだから。
まず「趣味を持たねば」という呪いを解く
「趣味がないとダメ」という世間の空気は、あくまで幻想だ。自分の中にあるプレッシャーこそが最大の敵であり、その重さが自分をさらに苦しめている。まずはその呪いを解こう。「なくてもいい」「あってもいい」くらいの気持ちで、自分に許可を出すこと。それがきっと、最初の一歩になる。
ちょっとしたことを「趣味」と呼んでもいい
別に資格を取らなくても、特別な技術がなくても、趣味にしていい。たとえば、昼に少し遠回りしてランチを食べに行くこと、それを日記に書くこと、週に一回だけ映画を見ること。そういう些細な時間も「自分の趣味です」と言ってしまっていいのだ。誰かに誇れるものでなくても、自分がふっと和らぐ時間なら、それで十分。
「趣味です」と言えるだけで、少し救われる
もし誰かにまた「趣味は?」と聞かれたら、今度はこう答えてみたい。「最近は、週末に歩いて空を見るのが好きなんです」。それがどんなに地味でも、笑われても、私は私の時間を持っている。そのことが、きっと自分を少しだけ支えてくれる。そんな風に、趣味という言葉に振り回されず、静かに自分の生活に寄り添っていけたらと思う。