登記簿に名前のない彼女
午前九時の相談者は涙ぐんでいた
「これ……彼の遺言なんです」
涙を浮かべた若い女性が机の上に一通の封筒を差し出した。
その手は震えていたが、瞳の奥に強い決意があった。
恋人は登記をしなかったという
彼女は数年間、亡くなった男性と事実婚のような形で暮らしていたという。
しかし、彼が所有していた土地は名義変更されないまま、彼の死を迎えた。
「彼はいつも言ってました。いずれ登記して、正式に私のものにするって」
土地の名義人は元妻だった
調べてみると、その土地の名義は数年前に離婚したはずの元妻のままだった。
「え、そんな……離婚届はちゃんと出したはずです」
依頼人は驚きを隠せず、こちらも困惑するしかなかった。
遺言書の文言に違和感がある
封筒の中の遺言書は、確かに自筆証書の形式を満たしているように見えた。
だが、財産の記載が曖昧で「土地はAに譲る」とだけ書かれていた。
Aが誰なのか、住所も氏名もない。これでは意味がない。
保管制度を使っていない遺言書
この遺言書は法務局の自筆証書保管制度を利用していない、いわゆる“家に保管していたタイプ”だった。
つまり、偽造のリスクもあり、内容も争点になりやすい。
「やれやれ、、、また揉めそうだな」と、俺はひとりつぶやいた。
サトウさんが発見した矛盾点
「これ、前回の委任状と似てますよ」
サトウさんが冷静に言った。あいかわらず感情の抑揚が少ない。
しかしその観察眼は鋭く、細かい筆跡の一致まで見抜いていた。
手続きが始まる前に現れたもう一人の女
そこへ事務所の扉が開いた。「失礼します、彼の元妻です」
年上と思しき女性が、堂々とした態度で座ると、登記簿のコピーを差し出した。
「この土地、実は私たちがまだ共有名義のままなんです」
元妻の提出した書類の不備
提出された書類には確かに「共有名義」とあったが、日付に不審な点があった。
登記の変更がされたはずの日に、依頼人は国外にいた。
しかも、委任状の印鑑の位置がぴったり同じだった。
サトウさんの推理が冴えわたる
「この印影、複写ですね。インクの滲み方が一致しています」
またもや淡々と告げるサトウさん。まるで毛利小五郎の横で暴走を止める蘭のようだ。
いや、どちらかといえば灰原哀の方が近いか。
不正な申請書類が明らかに
結論から言えば、元妻が依頼人に無断で偽造した委任状を使って、不正に名義を変更していた。
法務局への虚偽申請は、れっきとした犯罪である。
「そんな、彼が望んでいたことなのに……」と元妻は泣いたが、後の祭りだった。
登記簿は正直に語っていた
登記簿に改ざんはなかった。
ただ、そこに記された“正しすぎる事実”が、誰かの嘘を浮き彫りにしたのだ。
紙の記録は無言だが、見逃さなければ真実に導いてくれる。
登記されなかった恋が残したもの
「彼は、本当に私を想ってくれてたのかな……」
女性の問いに、俺はただこう返した。「少なくとも、登記よりもあなたを信じてた」
サトウさんが無言でお茶を差し出す。「あ、ありがとう……」俺は思わず照れてしまった。