相談される側の立場にいるということ
司法書士という仕事柄、日々多くの人の相談を受ける。登記のこと、相続のこと、家族のこと。人には言えない悩みを、なぜか私には打ち明けてくれる。それ自体はありがたいし、信頼されている証拠でもあるのだが、時折ふと思う。「じゃあ、私は誰に話せばいいんだろう」と。誰かに頼られる立場であることが、いつしか“誰にも頼れない状況”をつくり出していた。
頼られるのは嬉しいけれど
頼られるのは、ある意味で快感でもある。特に私のような独身男性にとっては、社会とのつながりを実感できる数少ない瞬間でもある。しかし、そこには“期待に応えねば”という無言の圧力が常にある。たとえば、ある日お客さんに「先生の言う通りにして良かったです」と笑顔で言われたとき、私はその場で笑っていたが、内心では「でも自分のことは何も整理できてないのにな…」と胸が詰まった。
「あなたなら大丈夫」と言われ続けて
困っている人に声をかけるたび、「先生は強いから大丈夫ですよね」と言われることがある。確かに私は、泣き言も言わず、黙って仕事をこなしている。でもそれは、言えないだけだ。人に頼られるうちに、自分の弱さを見せることが“裏切り”のような気がしてしまった。誰かを支える立場であるがゆえに、自分が支えを求めることが難しくなっていった。
強く見せるのが当たり前になっていた
「強く見せなきゃいけない」なんて、誰が決めたんだろう。いつの間にか、そういうモードが標準装備になっていた。昔、野球部でキャプテンを任されていた頃のクセが抜けていないのかもしれない。誰かが弱音を吐いたときには「大丈夫」と背中を押す。でも、自分がつらくなったときには誰にも言えず、深夜の事務所で一人うなだれる。そんな日々が、今も時々ある。
本音を言えない理由
なぜ本音を言えないのか。それは、周囲の期待と、自分自身のプライドがせめぎ合っているからだと思う。頼られている自分を壊したくないし、情けない姿を見せたくもない。特に地方の小さな事務所では、噂話ひとつが仕事に影響を与えかねない。だからこそ、いつも通りを装う。本音を言いたくなる瞬間はあるが、言葉を飲み込む癖がもう染みついてしまった。
弱音を吐くと信頼を失いそうで
「弱音=プロ失格」という感覚がある。たとえば、登記のミスをしそうになったとき、本当は誰かに相談したかった。でもそれを口に出すと、「あの先生、大丈夫かな」と思われる気がして、結局自力で抱え込んだ。結果的にはうまく処理できたが、胃が痛くなるほどプレッシャーを感じた。信頼されることと、自分がつぶれないことは、意外と両立が難しい。
「先生」だからこそ話せないこと
先生と呼ばれる立場になると、立ち話でも気が抜けない。近所の人とスーパーで会ったとき、軽く冗談を言ってみても「やっぱり先生は違いますね」と言われる。もう“普通の人”に戻れない気がした。役割としての「先生」が、自分という人間をどこかに押し込めてしまっている。だからこそ、誰かに気軽に弱音を言える場所がないまま、日々をやり過ごしている。
気づけば愚痴をこぼす相手もいない
若い頃は、飲みに行けば自然と愚痴もこぼせた。でも今は、誰かに声をかけるのも気が引ける。忙しそうにしている後輩に話しかけるのも、なんだか申し訳ない。かといって、同業の友人もみな自分のことで精一杯だ。結果、愚痴の相手がいないまま、家に帰ってテレビをつけて寝落ちする日々。LINEの履歴を見ても、仕事の連絡ばかり。本音は、スマホの画面にも打ち込めない。
事務所を支える責任と孤独
事務所を運営する立場になると、自由なようでいて不自由だ。一人で何でも決められる反面、責任も全部自分に返ってくる。事務員も一人雇っているが、あまり弱い姿は見せられない。経営者として、生活を守る責任がある。だが正直、誰かに「もう無理かも」と言いたくなる日もある。けれども言えない。言わない。それが、独りよがりの覚悟なんだと自分に言い聞かせている。
一人の事務員にすら気を使ってしまう
事務員さんはとても真面目で、よく働いてくれる。だからこそ、私が不機嫌だったり、疲れて見えたりすると、空気が悪くなる気がしてならない。彼女に余計な気を遣わせたくない。なので、多少疲れていても「大丈夫です」と笑ってしまう。けれど、事務所に戻って誰もいない時間帯に、机に突っ伏して動けなくなることもある。責任って、重いけれど見えない荷物だ。
「上司」であることのプレッシャー
「上司としての器」とか「経営者としての覚悟」なんて言葉は、正直どこか他人事だった。でも自分が実際にその立場に立つと、妙に肩に力が入ってしまう。「頼りない上司」と思われたら終わりだ、そんな思いがぐるぐるする。別にカリスマでいたいわけじゃない。ただ、人を雇うっていうのは、生活も信頼も背負うことなんだと、毎月の給料明細を作るたびに実感する。
相談に乗るたびにすり減る心
相談に乗るというのは、簡単なようでいて実はとても消耗する。人の話を受け止め、感情をなだめ、最善の方法を提案する。冷静さと優しさと、時には法律的な厳しさも必要だ。でも終わったあと、自分の心の中にどんよりとした重さが残る。誰かの悩みを一緒に背負った分、自分の悩みが押し出されていく。気づいたときには、自分の感情がどこかへ置き去りになっている。
聞き役のまま、いつも終わる
「先生に話せてよかった」と笑顔で言われたとき、その場では嬉しい。でも帰り道、急に虚しくなる。「今日も自分の話は誰にもしていないな」と思う。飲みに行く約束をしても、結局は相手の話を聞くことが多い。聞き上手は得かもしれない。でも、そればかりじゃ、心がすり減る。たまには誰かに、こちらの話を聞いてほしい。ただそれだけのことが、なぜか難しい。
解決してあげることで自分の感情は置き去り
人の悩みを解決してあげると、達成感はある。でもその反動で、心が空っぽになる瞬間がある。自分の内側を整理する時間が取れず、感情だけがぐちゃぐちゃに積み上がっていく。まるで、自分の部屋に荷物を置くスペースがなくなっているのに、人の荷物だけを受け取っているような感覚だ。解決してあげることが好きな自分。でも本当は、誰かに整理してもらいたいのは、こっちなのかもしれない。
それでも誰かの役に立っていたい
弱音を吐けない日々。孤独を抱えたままの仕事。でもそれでも、自分の言葉で誰かの気持ちが軽くなるなら、この仕事を続けていたいと思う。相談されるということは、信じてもらえている証拠。だったら、自分自身の心も少しずつケアしながら、これからも聞き役でいようと思う。相談されることの裏にある孤独も、また一つの“信頼のかたち”だと、今は思えるようになってきた。
話を聞けることは、やっぱり自分の誇り
どれだけ疲れていても、「先生、ありがとう」と言われると救われる。心の奥にしまった孤独も、その一言で少しだけ癒やされる。きっと私は、このままずっと“聞く人”でいるのだろう。でもそれでいい。それが自分に与えられた役目なら、愚痴を吐きながらでも続けていく。時には野球部時代のノックのように、ボールを受け止めながら、自分を鍛えているのかもしれない。
自分の弱さも肯定できるようになるために
最近ようやく、「強がらなくてもいい」と思える瞬間が増えてきた。自分の弱さも、誰かの役に立つかもしれない。そう思えば、少し肩の力が抜ける。相談されるばかりの人生に、少しだけ“相談できる時間”をつくる努力をしよう。たとえばこのコラムも、そんな自分のひとつの表現だ。文章にして吐き出すことで、自分の中の感情も少しずつ整理されていく。弱さを抱えたままでも、前を向ける気がしている。