あいさつ代わりの最近どうに詰まる朝
朝の駅前で、ふと知り合いに会って「最近どう?」と聞かれる。こちらとしてはただでさえ始業前で気持ちが整っていないのに、そんな言葉を投げられると一瞬フリーズしてしまう。別に特別な変化もないし、そもそも自分の現状を「どう」と答えられるほど俯瞰できていない。ましてや、ここ最近なんて忙しさに追われて、何がどうだったかすら曖昧になっている。ただでさえ雑務に追われて頭が回っていない中、あの一言は意外とプレッシャーだ。無難に「まあまあですね」と返すものの、自分でもその言葉に実感がこもっていないのがわかる。
なぜこの一言がこんなに重たく感じるのか
「最近どう?」という言葉は、相手にとっては本当にただの世間話かもしれない。だけどこちらとしては、無理に元気そうに見せる必要がある気がしてしまう。体調もまあまあ、仕事もいつも通り、でもどこか心がモヤモヤしている。そんな状態を数秒で答えられるはずがない。それでも返事を求められる。つまり、答えを持っていることが前提になってしまっているのだ。特に私のような個人事業の司法書士にとって、生活と仕事の境目が曖昧だからこそ、「最近」は仕事の話にもなりがちで、つい構えてしまう。
日常の積み重ねに自信が持てなくなる瞬間
毎日やるべきことはやっている。登記申請のチェック、お客さんとの電話、法務局への往復、事務員さんとの打ち合わせ。でも、こうして書き出すと何も「変わったこと」がない。変化がないということは悪くないのかもしれない。でもそれが続くと、自分は前に進めていないのではという焦りが出てくる。とくに、昔の野球部時代の同級生と久しぶりに会うときなど、「まだ独身か」とか「事務所大丈夫か」なんて冗談交じりに言われると、何となくこのままでいいのか不安にもなる。
悪気がないのは分かっていてもつらい
本当に悪意があるわけではないのはわかっている。昔の友人たちも、近況を知りたくて「最近どう?」と聞いてくれているだけだ。でも、その問いがじわりと胸に刺さる。こっちは毎日なんとか回してるのに、うまくいってるように振る舞わないといけないのかと、心が少しずつ疲れていく。きっと、元気そうに見られることが期待されているのだろう。でも、毎日笑って答えられるほど、人はいつも整っていない。たまたまその日は、返す言葉が見つからなかっただけなんだ。
どうって何だろうと考えてしまう職場の昼
昼ご飯を食べながら、ふと午前中の「最近どう?」という言葉が頭をよぎる。ひとり事務所でコンビニおにぎりを頬張りながら、「あれ、俺どうなんだ?」とぼんやり思う。日々は淡々と過ぎていく。仕事があるだけでありがたい、という気持ちと、変化のない毎日に飽きが来る気持ちが入り混じる。うまくいっているのか、ただ停滞しているだけなのか。そんな中途半端な状態を誰かに説明するのは、思っているよりも難しい。
とくに何も変わらない日々と向き合う
司法書士の仕事は波がある。忙しい月もあれば、電話すら鳴らない週もある。その落差があるからこそ、毎日「充実してます!」なんて言えるわけがない。でも「変わらない」こと自体が悪いことではないのに、自分ではそれを「進んでない」と感じてしまう。そうなると、毎朝事務所の鍵を開ける動作すら、意味があるのか疑問に思える日もある。何か成果が目に見えて出る仕事ではないだけに、評価は自分の中にしかなくて、それがまた辛い。
進んでいないようで焦る自分
同期だった知人が大きな法人に移って活躍しているという話を聞いたとき、内心で比べてしまう自分がいる。「自分の道を歩いているから」と何度も言い聞かせているが、気づけば成果や年収やSNSのフォロワー数で、こっそりと他人と比較してしまう。そういう時に「最近どう?」と聞かれると、「自分なんて…」と卑屈になる。誰もそんなつもりで聞いていないのに、勝手に自分の価値を図ろうとしてしまうのだ。
比べたくないのに誰かと比べてしまう
結局、人は比べずにはいられない生き物なのかもしれない。SNSを見れば、誰かの「うまくいってます」投稿が目に入るし、同業者のブログでは「今年は〇〇件登記をやりました」なんて数字が並んでいる。それぞれのやり方や事情があるのは分かっている。でも、比べるたびに自分がどんどん小さく感じる。だからこそ、「最近どう?」の一言が、鏡のように自分の足りなさを映してしまうのかもしれない。
誰にも言えないけれど整理したい気持ち
仕事のこと、将来のこと、人付き合いのこと。答えが出ないまま積もっていく思考を、誰かに話したいと思うことがある。でも、いざ人を目の前にすると言葉が出てこない。事務員さんには心配をかけたくないし、友達には変に思われたくない。そうなると、話す相手がいないまま、気持ちだけが宙ぶらりんになる。整理したいのに整理できず、そのうち考えることすら面倒になっていく。
なんとなく疲れているのに元気って答えてしまう
本当は「ちょっとしんどいです」と言いたい。でも、そんな答えをする勇気がない。相手が気まずくなるかもしれない、暗いと思われるかもしれない。だから結局「元気ですよ」と笑ってしまう。それは優しさでもあり、自衛でもある。でも、自分の本音を押し込めてばかりいると、どこかでガスが溜まってしまう。誰かに愚痴をこぼしたいけど、その「誰か」がいないのが一番の問題なのかもしれない。
話せる相手がいないという現実
40代になって、身の回りに相談できる人がどんどん減っていく感覚がある。家庭がある友人には気軽に連絡しにくいし、同業者とは利害もあるから深入りもできない。ひとりで事務所を構えていると、孤独と向き合う時間も自然と増える。そんな中で、「最近どう?」と投げかけられると、自分の孤独を浮き彫りにされるような気がする。話したいのに話せない、そんなジレンマが心を疲れさせるのだ。
無理に答えを出さなくていいという選択肢
最近ようやく、「最近どう?」に無理して答えなくてもいいと思えるようになってきた。すべてに意味のある言葉を返さなくてもいいし、毎回ポジティブに返す必要もない。調子が悪いなら悪いままでいいし、何もないなら「特になにも」でいい。それを受け止めてくれる人との関係があれば、それで十分だ。
最近どうの答えに正解はない
「最近どう?」という問いに、明確な答えがあるわけではない。その日の気分や体調、会話する相手との距離感、いろんな要素で変わる。だからこそ、「こう答えなきゃ」という思い込みを手放してみるのも大事だ。毎回うまく答えられなくても、自分を責める必要はない。無理せず、「まあまあかな」くらいでも立派な返答なのだ。
曖昧でもいいし笑ってごまかしてもいい
「どう?」と聞かれて「ぼちぼちです」と笑っておけばいい日もある。真面目に向き合いすぎると疲れる。人生はずっと全力では走れない。ゆるく構えて、肩の力を抜いてみる。相手も意外とこちらの深刻な内情までは求めていないことも多い。だからこそ、曖昧な答えもまた、大人の知恵なのだ。
返せなかったことを責めなくていい
あの日、うまく答えられなかったことを思い出して落ち込む必要はない。自分の内側がぐちゃぐちゃなときに、とっさに言葉が出てこないのは当然のことだ。それだけ、自分がちゃんと向き合おうとしている証拠でもある。言葉が詰まったときは、それだけで自分をねぎらってあげていい。「整っていない」ままでも、生きているだけで十分だと思えるように、少しずつ、ゆっくりと。