信頼という言葉に救われる瞬間がある
「信頼してます」と言われた夜のことを、今でもよく覚えている。あの日は、書類の山とFAXと電話対応に追われて心も体もすり減っていた。誰からの評価もないまま働いているような感覚に、ふと心が折れそうになった。でも、その依頼者が一言、「先生のこと、信頼してます」と言っただけで、不思議と力が湧いてきた。好きですと言われたことは人生で数えるほどしかないけれど、信頼されているという実感は、想像以上に深く心に刺さった。
好きと言われたことがあまりない人生
思い返せば、学生時代も社会人になってからも「好きです」と言われたことは本当に少ない。元野球部だったとはいえ、女子にモテるタイプではなかった。泥臭く声を張り上げて、グラウンドを走っていた記憶のほうが鮮明だ。今も独身のまま司法書士をやっているけれど、恋愛や家庭の温かさにはほとんど縁がない。だからこそ、好かれることよりも、信頼されることのほうが現実的で、心に残るのかもしれない。
元野球部でがむしゃらだったあの頃
甲子園を目指していたわけではないが、あの頃はただただ一生懸命だった。毎日の練習に食らいつき、先輩に怒鳴られ、泥まみれになりながら白球を追いかけていた。仲間たちと交わす無言のサイン、結果が出なくても腐らずやり続ける姿勢。そのすべてが今の自分の「粘り」に繋がっている気がする。当時の努力は、誰かに好かれるためではなく、ただ信頼されるための訓練だったのかもしれない。
恋愛に向いてなかったのかもしれない
大学でも社会に出ても、恋愛のチャンスは何度かあったはずだ。でも自分には、相手を楽しませるセンスがない。デートも不器用だし、会話も味気ない。そもそも、日常のほとんどを仕事に使ってきたような人生だから、相手に寄り添う余裕なんてなかった。そんな自分が誰かに「好き」と言われることを期待するほうが間違っていたのかもしれない。けれど、信頼ならまだ届く場所にあると思えるのだ。
信頼してますと言われたときの不思議な感覚
それは、登記の手続きが難航していた案件でのことだった。相続人が多く、書類も煩雑。何度も電話や訪問を重ねて、ようやく申請にこぎつけた。疲弊していた私に、その依頼者はぽつりと「先生、ほんとに信頼してます」と言ってくれた。その一言が、肩に乗っていた重さをふっと軽くしてくれた気がした。あの瞬間、初めて「この仕事をやっていてよかった」と思えた。
ある依頼者の言葉に胸が詰まった
その依頼者は決して口数が多い人ではなかった。毎回のやり取りも、必要最低限の確認だけ。それだけに、その「信頼してます」という言葉の重みは計り知れなかった。誤魔化しのない目をしていた。その目を見て、「ああ、やっと自分の存在が誰かの役に立ったんだな」と感じた。感謝の言葉よりも、心に沁みた瞬間だった。
ありがとうよりも重く響いた瞬間
「ありがとう」はたくさんもらってきた。でも、それはどこか社交辞令のように感じることもあった。忙しいときほど、形式的な「ありがとう」に虚しさを感じる。けれど「信頼してます」という言葉は、相手がこちらの姿勢をちゃんと見てくれている証だ。それがあるから、もう少しだけ頑張ろうと思える。ほんの一言が、意地だけで立っていた足元に、小さな支えをくれるのだ。
司法書士の仕事は信頼されてなんぼだと気づくまで
この仕事を始めたばかりの頃は、とにかく早く処理することばかり考えていた。書類の正確さ、法務局とのやり取り、期限厳守。けれど、目の前の人に寄り添うことは、どこか後回しにしていた気がする。経験を積む中で、信頼はスピードではなく誠意から生まれると気づいた。そしてその誠意を、誰かが受け取ってくれるとき、自分自身も報われるのだと知った。
必死にやっても褒められることは少ない
司法書士の仕事は基本的に「当たり前」をやって「当然」とされる仕事だ。何か問題が起きれば責任を問われるが、無事に済んでも特に賞賛されることはない。誤字ひとつでクレームになり、完璧でも「普通」の評価。だからこそ、やっていて報われないと感じる瞬間が多い。でもその中でも、自分の姿勢や働き方を認めてくれる人がいることが、唯一の救いだ。
地味な仕事にスポットライトは当たらない
書類を作って、提出して、また確認して。華やかな場面はない。誰かの前で堂々と話す機会も少ない。日常のほとんどは、机の上とパソコンの画面との対話。そんな仕事に光が当たることはほとんどない。でも、その「誰にも見られていない時間」をどう過ごすかで、信頼という結果がついてくる。派手ではないが、確かな価値がそこにある。
感謝されるよりも先に来るクレームの電話
忙しいときに限って、クレームはやってくる。誤解や行き違い、説明不足が原因のこともある。それでも、まず「すみません」と謝るのはこっちの役目。心がすり減る日もある。それでも折れずにやっていられるのは、信頼してくれている依頼者がいるからだと思う。誰にも言えないけれど、「信頼してます」という一言のために、自分は踏ん張れているのかもしれない。
それでも信頼されることの価値
仕事の質が数字に表れるわけではない。でも、「あの先生にお願いしてよかった」と思ってもらえたら、それが一番の評価だ。信頼とは、ゆっくりと積み重ねていくもの。だからこそ、失うのも一瞬だし、得るには地道な努力がいる。簡単じゃないけれど、そこに意味がある。信頼されることを諦めたら、この仕事の本質を見失う気がする。
愚痴を聞きながら気づく小さな信頼の種
事務員との会話の中で、よく愚痴をこぼす。でもその愚痴の中に、自分でも気づかなかった気持ちが浮かび上がるときがある。「先生の言い方、たまにキツいですよ」と言われて、ハッとした。でもそれを正直に言ってくれるのも、ある種の信頼だと思っている。お互いの不満や本音を話せる関係の中にこそ、信頼の芽は生まれるのかもしれない。
事務員がぽつりとくれた言葉に励まされた
「先生って、なんだかんだでちゃんとやるから、すごいと思いますよ」。何気ない昼休み、カップラーメンを食べながら言われたその一言が、胸に残っている。褒められ慣れていないぶん、ちょっと照れくさかったけど、それが妙に嬉しかった。評価じゃなくて、信頼。きっと、それが自分の原動力になっているのだと思う。
信頼は一日にしてならず
信頼を得るには時間がかかる。それは人との関係だけじゃなく、自分自身との信頼も同じだ。すぐに結果が出ない日々の中で、自分のやり方を信じ続けることが、実は一番難しい。でも、それを積み重ねる先にしか「信頼してます」の一言はない。だから、今日もまた、静かに、でも地道にやっていくしかないのだ。
積み重ねるしかないから今日もやる
日々の仕事は、地味で単調なことの繰り返し。でもそれを丁寧に、誠実にやり続けることだけが、信頼という果実を育てる手段だと思っている。大それた目標も夢もない。ただ、「この人になら任せられる」と思ってもらえる存在になりたい。そのために、今日もまたパソコンに向かい、電話に出て、書類に向き合う。
朝早くの電話対応から始まる一日
朝8時前にかかってくる電話。寝ぼけた声を隠しながら受話器を取る。たったそれだけのことで、「あ、先生もう出勤してるんですね。信頼できますね」と言われたことがある。そういう些細なことの積み重ねが、相手に安心感を与えるのだと思う。特別なことではないけれど、当たり前を当たり前にやり続けることの重みを、日々感じている。
見えないところで見られている覚悟
誰かが見ていないときこそ、本当の信頼は試される。手を抜こうと思えばいくらでも抜ける仕事だからこそ、そこで誠実でいられるかが問われる。依頼者には見えない作業こそ、一番丁寧に扱うべきだと思っている。それが結局、信頼されるかどうかの分かれ目になる。自分の良心と向き合い続ける覚悟が、この仕事には必要だ。