関わらない癖がついた心をどうやって戻すか

関わらない癖がついた心をどうやって戻すか

気づけば誰とも深く関われなくなっていた

司法書士という職業柄、一人で完結できてしまう仕事が多く、人と深く関わらずに済んでしまう日々が続いていました。最初は「忙しいから」「集中したいから」と距離をとっていただけだったのに、いつの間にかそれが癖になってしまっていたんです。気がつけば、心のどこかで人とのやり取りを避けるようになり、必要最低限のやりとりだけで毎日が終わっていく。楽なようでいて、どこか物足りなくて、でもどうしていいかわからない。そんな日常に、少しずつ違和感を感じるようになっていきました。

人と会わなくても仕事が成り立ってしまう日常

登記の申請も、書類の確認も、今では郵送やオンラインで済んでしまう時代です。依頼人と顔を合わせなくても、事務的にはまったく支障がない。だからこそ、逆に人と接すること自体に「構えてしまう」自分が出てくるんですよね。ふとコンビニで知り合いに会っても、話しかけられるのが妙にしんどい。世間話すら億劫になってしまったとき、「ああ、自分はもう昔みたいに人と関われないのか」と情けなくなる瞬間があります。

昔はもっと気楽に話せたはずなのに

20代の頃は、初対面でも気楽に話せていたし、依頼人と雑談するのも嫌いじゃなかった。それが今では、話す前に「どう返すのが正解か」と考えすぎてしまう。相手に嫌われたくない気持ちと、できるだけ距離を取りたいという気持ちが混ざり合って、結果的に会話を避けてしまう。こんな自分を、若い頃の自分が見たらどう思うんだろうと、時々考えてしまいます。

声をかけられるだけで構えてしまう今

事務所にかかってくる電話のベルにさえ、ビクッと反応するようになりました。たかが一本の電話、されど一本の電話。それがどんな内容か、面倒じゃないか、心の準備ができていない自分は、それだけで気疲れするんです。関わること=エネルギーを使うこと、と捉えるようになってしまった今、人間関係がどんどん遠のいていく感覚に襲われることがあります。

事務員との距離感にも気を遣いすぎてしまう

唯一の職場の仲間である事務員さんとの関係も、時には妙に緊張します。雑談すればいいのに、黙って仕事に集中している方が楽。だけどそれでは「冷たい人」と思われるんじゃないかと気にしてしまう。優しくしたい、でも馴れ馴れしく思われたくない、そんな気持ちが入り混じって、つい距離をとってしまうことがあります。

優しくしたいけど気を使われるのもしんどい

仕事が終わった後、「今日はちょっと怖かったです」と事務員さんに言われたことがありました。自分ではそんなつもりはなかったのに、声のトーンや顔色でそう受け取られてしまう。こっちはこっちで余裕がなくて、優しくするどころか目も合わせていなかったかもしれない。気を使うあまり、かえって相手に気を使わせてしまうという悪循環。正直、しんどいです。

沈黙の空間に耐えるようになってしまった

昼休みの無言の時間が妙に重く感じる日があります。スマホをいじるでもなく、雑談を始めるでもなく、ただ静かに時間が過ぎていく。以前は冗談の一つも飛び交っていたのに、今は何も言葉を発しないまま午後の業務に戻る。沈黙の正体が「気まずさ」だと分かっていても、どう打ち破ればいいのか分からないまま、日々が過ぎていきます。

「うまくやらなきゃ」という強迫観念

年齢も立場も上というだけで、「ちゃんとしなきゃ」「ミスできない」と自分にプレッシャーをかけてしまう。部活のキャプテン気質がまだ残っているのかもしれません。でもその完璧主義が、人との自然な関係性を壊してしまっている。もっと適当でもよかったのに、いつの間にか「良い上司」を演じようとして自滅する。そんな自分に、少しだけ疲れてしまうことがあります。

昔の野球部時代はどうしてあんなに人と笑えたのか

振り返ると、高校野球部時代の自分は今とはまるで別人でした。怒鳴り合いながらも笑っていたし、ミスすれば本気で叱られた。だけどそこには信頼があったんです。勝手に一人で抱え込むこともなかったし、誰かが必ず「お前大丈夫か」って声をかけてくれた。今の仕事には、そういう関係性がない。ただひたすら自分との戦い。気づけば、誰かに頼ることが怖くなっていたんです。

理屈抜きでぶつかり合えた関係性の心地よさ

球場では言葉なんて二の次でした。目を見れば、次に何をするか分かるような空気があった。怒られても翌日には普通に会話していたし、遠慮も建前もなかった。そんな空間の心地よさを知っているからこそ、今の“よそよそしい関係”がどうにも肌に合わない。だけど、それをもう一度築くのは簡単じゃない。なぜなら、自分がそれを避けるようになってしまったからです。

「強くあれ」という言葉に縛られていた自分

キャプテンだった頃、いつも「強くあれ」と言われ続けました。泣くな、折れるな、仲間を引っ張れ。それは今の司法書士としての自分にも根付いていて、弱さを見せることができない。だから人間関係も、「見せられないものを見せずに済む距離感」で済ませてしまう。けれど、もうそれでは限界かもしれない。誰かに弱音を吐く場所も、許される自分も、必要なんだと思います。

もう一度誰かと向き合うにはどうすればいいのか

完全に人を避けるようになってしまった心を、どうやって戻せばいいのか。無理やり仲良くなろうとするのではなく、まずは「誰かと一緒にいること」を自然に感じられるところから始めたいと思っています。完璧な対応じゃなくてもいい、多少不器用でもいい。そう思えるようになれたら、もう少し人との距離も近づけるかもしれません。

無理に仲良くならなくてもいい関係づくり

距離を縮めようと無理をすると、結局どこかで歪みが出てしまう。だから、仕事を通しての「関係の中にある優しさ」だけでいいと最近思うようになりました。言葉にしなくても伝わるような、沈黙すらも安心できる関係。それを目指すことで、自分の中の警戒心も少しずつ解けてきたように感じています。

小さな雑談を大事にする練習

「今日は寒いですね」と言うだけでも、会話の糸口になる。天気の話、コンビニの新商品、近所の工事の音。どれも他愛ないけれど、そうした小さなやり取りの積み重ねが、人と繋がっている実感をくれる。その小さな積み重ねが、自分の中の「避け癖」を少しずつほぐしてくれる気がします。

自分を少し許すところから始める

完璧でいなくていい、人と話せなくてもいい、でも話したい気持ちがあるならそれを否定しなくていい。そんなふうに、自分に対して少しずつ許しを与えていく。誰かと関わることは、自分をさらけ出すことでもあるけれど、少しずつでいい。関わることに怯えていた自分も、それを乗り越えようとする自分も、どちらも間違っていないと思えるようになってきました。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。