心配されるたびに自分の価値が減るような気がする
「大丈夫?」って言葉、優しさの塊みたいなもののはずなのに、最近は聞くたびに胸がズキッとする。なぜか申し訳なさが先に来てしまう。疲れてるのが顔に出てるのか、声が暗いのか、きっと相手は悪くない。でも、「心配される自分」になっていることが、どうしようもなく自尊心を削ってくる。司法書士という肩書きがあるぶん、余計に「しっかりしていなきゃ」という思いが強くなるのかもしれない。ひとりでやっている自営業だから、頼られることに慣れすぎていて、逆の立場になると弱さを見せるのがこんなにも難しいとは思わなかった。
「大丈夫?」が刺さる日もある
事務所に来た取引先の人や、電話の向こうの依頼人に「先生、大丈夫ですか?」と聞かれることがある。きっと雑談の一環だったり、少し疲れた声を気遣ってくれての言葉だ。でも、そう言われた瞬間、なぜか自分が「大丈夫じゃない人」に見られているようで、心がざわつく。「大丈夫です」と笑って返しながら、内心では「心配されるような顔してたかな…」と自己嫌悪のループが始まる。そういうときほど、妙に元気なフリをしてしまう自分もいて、それがまたしんどい。
弱ってる自分を見せるのが下手なだけなのに
昔から、どこかで「弱音を見せる=ダメなやつ」という思い込みがあった。特に元野球部時代は、ケガしてても「いけます」って無理してたし、水を飲むのすら根性の問題だった。そんな空気の中で育ったからか、社会に出ても弱ってる自分を見せるのは下手くそなまま。司法書士になってからも、どれだけしんどくても「このくらいで音を上げてたらやってけない」と自分を追い込んでた。誰かに見抜かれると、「ごめん」って気持ちばかりが先に立ってしまう。
昔は強がることでしか自分を保てなかった
高校時代、ベンチで過ごすことが多かった僕は、強がることで自分の存在価値を保っていた。「自分は裏方でチームを支えてるんだ」って、どこか無理やり納得していた気がする。だからこそ、誰かに心配されると、「そんなに自分ってダメに見えるんだ」と思ってしまう癖が染みついた。あの頃から変わらず、強く見せることが礼儀だと思ってる部分がある。でも実際は、ただ不器用なだけなんだと、ようやく最近になって思えるようになった。
心配されるとごめんなさいが口癖になる
自分でもおかしいと思うけど、心配されるとすぐに「すみません」とか「ごめんなさい」が口をついて出る。まるで心配されたこと自体が迷惑をかけたみたいに感じてしまうからだ。これは仕事に限らず、プライベートでも同じ。友人が「最近元気なさそうだね」と言ってきたときも、「あー、ごめんごめん」とつい謝ってしまった。別に誰にも迷惑をかけてないのに、自分の存在が何かしら重荷なんじゃないかという思いが心のどこかにこびりついている。
優しさを受け取る器が小さい気がする
人の優しさを素直に受け取れないって、なんだか自分が器の小さい人間に思えてくる。相手が純粋な気持ちで心配してくれているとわかっていても、どうしても「こんな自分が気を遣わせてしまっている」と感じてしまう。司法書士という職業柄、人の悩みや困りごとを解決する側に立っているからこそ、誰かに心配される側になることに違和感を覚えるのかもしれない。自分が頼られる存在じゃなくなることへの恐怖すらある。
「ありがとう」と言うのがなぜこんなに難しいのか
本当は「心配してくれてありがとう」って言えたらいい。だけど、喉の奥に引っかかって出てこない。代わりに出るのは、「ごめんね」「そんなつもりじゃなかったんだ」という防御の言葉。優しさに「ありがとう」と返すには、自分がその優しさを受け取ってもいいという自己肯定感が必要なのかもしれない。でも、長年「自分にはそんな価値ない」と思ってきたから、そう簡単には変われない。だけど、少しずつでも変わりたいとは思っている。
独立してからずっと感じていた孤独と責任感
司法書士として独立して十年以上経つ。正直、責任の重さに潰されそうになる日もある。誰かに任せるという選択肢が少ないから、どうしても「全部自分でやらなきゃ」という思いに支配されがちだ。一人でやっていると、ちょっとしたことでも判断に迷う。でも相談する相手もいないから、どんどん孤独感が募っていく。そんな状態で「大丈夫?」と聞かれると、心配されるのが辛いというより、自分の弱さを改めて突きつけられる気がする。
一人で背負っていると気付かれたくなかった
自分で選んだ道なのに、「一人で頑張ってるね」と言われると、なぜか惨めな気持ちになる。「頼る人がいない可哀想な人」と思われてるんじゃないかという被害妄想すら湧いてくる。別に同情されたいわけじゃない。ただ、そっと見守ってくれるだけでいい。でも、そういうちょうどいい距離感って難しい。特に、同業者にはなかなか弱音を吐けない。「こんなことくらいで悩んでるの?」と見られるのが怖いから。
事務員にも気を遣いすぎて逆に疲れてしまう
一人雇っている事務員さんにも、つい気を遣ってしまう。彼女が気を利かせて「無理しないでくださいね」と声をかけてくれるたびに、「そんなに頼りなく見えるのかな」と思ってしまう。別に悪気はないと分かってるけど、こちらが気を抜けば抜くほど、彼女の負担になるんじゃないかと考えてしまう。だから、結局は自分に無理を課して、また疲れていく。人に頼るって、こんなに難しいことだったのかと実感する日々だ。
それでも前に進めるのは何かを信じているから
そんなこんなで、毎日つまずきながらも、なんとか司法書士としてやっている。自分の不器用さや、頼れなさや、勝手な申し訳なさを抱えながら、それでも続けてこれたのは、やっぱり「誰かの役に立てた」と思える瞬間があるからだ。自分の存在を必要としてくれる人がいる限り、多少の不安や孤独も受け止められる。完璧な人間じゃなくていい。ちょっと弱いけど、ちゃんと向き合っているという実感が、少しずつ自分を支えてくれている。
まだ自分にもできることがある気がしている
心配されるたびに「ごめん」と思ってしまうけど、少しずつ「ありがとう」と言えるようになりたい。それはきっと、自分が変わっていくプロセスの中で必要なことなんだと思う。司法書士として、人として、まだまだ未熟だけれど、それでも歩みを止めずにいることで、誰かの共感や安心につながることもあるかもしれない。自分のことを語ることで、「ああ、自分だけじゃなかった」と思ってもらえたら、それだけでもこの文章には意味がある。
誰かの支えになった瞬間だけは救われる
仕事をしていて、ふと「先生にお願いしてよかった」と言われることがある。その瞬間だけは、自分の不安や疲れがすっと消える気がする。たった一言でも、ちゃんと届くと、人間って前に進めるんだなと思う。心配されることも、自分の弱さも、全部をひっくるめて「それでも存在していていい」と思えたとき、ようやく少しだけ、胸を張れる気がした。今日もまた「大丈夫?」と言われたけど、今度はちゃんと「ありがとう」と返せた。ほんの少しだけど、進歩だと思う。