封筒を開けるのが憂鬱になる瞬間
ある朝、ポストを開けると白い封筒が3通。差出人を見て、またか、とため息。経験のある方も多いだろう。司法書士という仕事柄、事務所宛にも自宅宛にも郵便物が多い。ただし、届く手紙の9割以上が請求書か行政通知。かつて学生の頃は、手紙といえば誰かからの便りや案内で、開ける瞬間にほんの少し心が躍ったものだ。今は違う。封を切るときの手の動きさえ重たい。何が来たかより、どれだけ払わされるかを考えてしまうようになった。
ポストに入っているものはほぼ請求書
昔のポストは、季節の挨拶状やちょっとしたDMが混ざっていた。でも最近は、ポストを開けた時点で結末が読めてしまう。「水道」「電気」「登録免許税立替分」などなど、見るだけで疲れてしまう名称が並ぶ。唯一ワクワクしたのは、事務用品の納品書だったけれど、それさえ今は請求書付き。自宅ポストにも容赦はなく、健康保険や国保、税金関係の通知ばかり。手紙=金の請求という刷り込みが、完全に完成してしまっている。
たまに役所からの手紙でもやっぱり手続きの通知
「お、今回は封筒が少し違うな?」と思っても、大抵は役所からの通知である。「●●の変更届が必要です」「提出期限●月●日」…内容を読むと面倒くさいことが待っているパターンばかり。決して悪いことが書いてあるわけではないのだが、やることリストに項目が増えるという意味で、精神的にしんどい。よくよく考えれば、手続きや申請の存在が司法書士という仕事の源泉でもあるのに、自分に届くとこんなにも嫌な気持ちになるのは皮肉な話だ。
昔は封筒が楽しみだった時代もあった
高校時代、野球部だった自分にとって、甲子園の遠征案内や、後援会からの手紙は誇らしかった。「お前たちの頑張りに期待している」という一文に、封筒の重みを感じたものだ。大学の入学通知書もそう。開ける瞬間に手が震えた。あの頃の「封筒」には、未来や希望が詰まっていた。今はもう、そこに詰まっているのは経費の請求と、期限のプレッシャーだけ。これが大人になるってことなのかと思うと、少し切なくなる。
請求書という名前の現実
請求書という言葉には、シンプルだが容赦のない響きがある。毎月定例で届くものもあれば、突然やってくる一発モノもある。経費とはわかっていても、金額の桁が一つ違えば心がざわつくし、それが複数重なると胃が痛む。時には「えっ、これって払うべきだったっけ?」と混乱することも。整理しようにも、忙しさにかまけて後回し。溜まる紙の束が、自分の無力感を可視化してくるようで、机に置くだけでうんざりする。
書類の山に紛れる経費の束
封筒を開けたあと、その紙たちは大抵「とりあえず」のトレーに投げ込まれる。ところが後で見返すと、どれが何の請求だったか分からない。封筒と中身を別々に置いてしまうと、リンクが切れる。しかも税理士さんに出すときに「これは私的経費ですか?」と聞かれる始末。そんな細かい記憶、覚えてるはずがない。見出し付きのファイルを作ればいいと分かっていても、やろうという気力がわかないのが実情である。
支払期日に追われる日々の重さ
一度や二度、支払いをうっかり忘れたことがある。「重要」「至急」と赤文字で再送される封筒に、心がドキッとする。事務員さんに見られないようにこっそり処理する自分が情けない。世の中には自動引き落としや口座振替で済ませる人も多いけれど、事務所経営をしていると、そう簡単にはいかない項目も多い。取引先ごとに支払いタイミングが違えば、常にどこかで請求が発生している状態。休む暇がない。
もう何の支払いなのか分からなくなる現象
「これは登記印紙代?それとも登録免許税?」「いや、これは交通費か?」といった迷いが日常的に発生する。昔は一件一件丁寧にメモをしていたのに、今ではとにかく処理を先に、と気が急いてしまう。気づけば明細書だけが束になり、どこに書いたか、書いたかどうかすらも分からない始末。こうなると、封筒が来るたびにため息が出るのも当然である。請求書の管理、それ自体が一つの業務になってしまっている。
司法書士という仕事に付きまとう経費と請求
司法書士という職業は、一見すると「報酬で稼ぐ」仕事だが、実態は「立替で支払ってもらう」構造でもある。登記費用や各種印紙代、証明書発行の手数料…。それらを一度こちらが立て替える形になることが多い。すると、月末にまとまってやってくる請求書の嵐。それを一つずつ精算するという、ある意味「見えない経理部」のような仕事もこなさねばならない。事務員がいても、結局自分で確認しないと不安が残る。
予想外に多い立替と精算のプレッシャー
「あとで請求すればいいや」と思って立て替えたお金が、うっかり請求漏れになることもある。忙しいと、クライアントへの細かい立替伝票を書く時間も惜しい。でも後回しにすると、そのまま忘れてしまう。少額だからいいか、と思うけれど、年間で見るとけっこうな金額になる。「あれ、あの案件、登録免許税ちゃんと回収したっけ?」と夜中に思い出して眠れなくなるのは、あるあるだと思う。
報酬より先に出ていくお金の流れ
本来、報酬というのは「仕事を終えたご褒美」みたいなものだと思っていた。でも実際は、請求書の支払いが先、報酬の入金はずっと後、という構造に頭を悩ませることが多い。下手をすれば、月末の口座残高がマイナスになる寸前。売上は立っていても、キャッシュが回らない現象。経営者としてのスキルを問われる部分ではあるが、元野球部としては、そもそもこういう計算が苦手で、つい現実逃避してしまう。
封筒が怖くなる日常の中で思うこと
「郵便受けを見るのが怖い」と言うと笑われるかもしれない。でも、日々の仕事に追われている中で、さらに支払いの現実を突きつけられると、さすがに心が折れそうになる。封筒が「紙のナイフ」に見えてくる感覚。切り裂いた先には、たいてい自分の首を締めるような現実が入っている。この感覚、決して自分だけではないはず。特に同じように一人で事務所を回している司法書士には、共感してもらえると思う。
事務員に請求書を見られたときの気まずさ
封筒を開けて「あ、また請求書だ…」とつぶやくと、事務員さんが一瞬だけこちらを見る。その視線に含まれる微妙な空気が、なんとも言えない。「経営、大丈夫ですか?」とは言われないけれど、なんとなく心配されてる気がする。こちらとしては、「いや、普通だから」と返したいけれど、実際のところ普通じゃない。感情を見せすぎてもいけない。でも隠しても無理が出る。中年男性の、悲しい葛藤である。
独立した自由と孤独の代償
独立してよかったと思うこともある。誰に指図されずに動けること、やりたい業務を選べること。でもその裏には、すべての責任を一人で負うというプレッシャーがある。請求書一枚にすら、ミスや怠慢が許されない。体調を崩しても、代わりはいない。誰かに相談しても、結局「自分でなんとかするしかない」場面の連続。独立とは、ある意味“自由な檻”だと痛感する。
一人で全部抱え込むことの限界
「人に頼ればいいじゃないですか」と簡単に言う人もいる。でも実際は、業務内容を説明する時間のほうが長くなるし、信用して任せるにも限界がある。結局、自分でやったほうが早い。そうやって全部抱え込んで、気づいたら疲れ切ってる。趣味も減り、人との付き合いも減り、気づいたら仕事と請求書に囲まれている毎日。少しずつでいいから、誰かと支え合える仕組みを作らないと、このまま潰れてしまうかもしれない。
それでもやめない理由
ここまで読んで「なんでそんなに辛いのに続けてるの?」と思った方もいるかもしれない。でもやっぱり、この仕事には意味があると思っている。誰かの人生の節目に関わる。トラブルを解決するお手伝いができる。依頼人が「ありがとう」と言ってくれた瞬間、封筒の苦しさが少しだけ薄れる。愚痴は多い。でも、それだけこの仕事に向き合っている証でもあると、自分に言い聞かせている。
誰かの役に立っていると信じたいから
登記が終わったあと、依頼者が笑顔で帰っていく姿。電話で「助かりました」と言われる瞬間。そんな些細な出来事が、この仕事のモチベーションになっている。請求書は辛いけれど、その裏には「誰かに尽くした証」もある。そう思えるようになるまでに、かなり時間がかかった。でも今では、その小さな達成感を頼りに日々を回している。
請求書の裏にある感謝の気持ちを探して
封筒を開けて請求書を見つけた瞬間、「またか…」とつぶやいてしまう。でも、もしそれが誰かの問題を解決するためのコストだったとしたら。それはただの「支払い」ではなく、「感謝と信頼の証」なのかもしれない。そう考えると、封筒が少しだけ優しく見える日もある。たまにはそんなふうに、自分を慰めてみてもいいのではないかと思う。