全力を尽くしたはずなのに心が冷える夜がある
今日は珍しく朝から依頼が立て込んで、電話もメールもひっきりなし。登記の準備も、相談対応も、事務員とのやりとりも、自分としては珍しく手際よくこなせた。そんな日は、本来なら「充実してたな」と思いたい。でも、日が暮れて事務所を閉める頃になると、妙に胸のあたりがスカスカしてくる。自分のがんばりを誰かに伝えたい気持ちと、それを言える相手がいない現実に、急に冷たい風が吹き込んでくるような感覚。これは疲労じゃない、寂しさだ。
誰にも気づかれない努力のむなしさ
士業というのは、どこか孤独な仕事だ。依頼人は「助かりました」とは言ってくれるけど、こちらの苦労や判断の重さを本当の意味で理解してくれる人は少ない。今日だって、立て続けに3件の相続登記を処理した。途中、法務局とやり取りしながら不備を解消し、急ぎの案件に夜間まで対応。誰かに「今日すごかったね」と言われたいわけじゃない。でも、誰からも何も言われないというのは、想像以上に堪える。なんのために頑張ったのか、一瞬、わからなくなる。
相談件数はこなしたけど心は空っぽ
電話越しに感謝の声をもらっても、メールで「助かりました」と言われても、それだけじゃ埋まらないものがある。事務所という閉ざされた空間の中で、数字や書類と向き合っているうちに、自分自身が機械のようになっていく。今日は3件の相談、2件の完了処理、1件の急ぎ対応。数字で見れば立派かもしれない。でも、心は満たされていない。ただの通過点のように、淡々と処理していく感覚。仕事が好きなはずなのに、なぜか一日が終わった後、ぽつんと取り残された気持ちになる。
「先生すごいですね」の言葉がしみる夜
たまに知人に「先生すごいですね」「ひとりで全部やってるんですか?」と言われることがある。あの瞬間だけは、少し救われた気がする。でも、褒められた直後にふっと思う。「すごい」って言われても、孤独だよな…と。今日も誰とも飲みに行く気にもならず、夕食はコンビニ弁当。がんばった日の終わりに、自分を認めてくれるのが自分だけっていうのは、けっこうつらい。だからこそ、何気ないその一言が、心にじんわり染みる。
事務所の灯りだけが遅くまで残っている
夕方6時を過ぎても、うちの事務所の灯りはまだついている。通りを歩く人もまばらになってきて、気がつけば窓に映るのは自分の姿だけ。事務員の彼女は定時で上がる。彼女の後ろ姿を見送ってから、自分ひとりになるこの時間帯が、毎日の中でも特に静かだ。がんばった後の静けさは、安堵ではなく、どこか空虚に感じられる。誰かが待ってくれているわけでもなく、誰かと笑い合う予定があるわけでもない。静かなのは、悪いことじゃない。だけど、少しさみしい。
無言で帰る事務員さんと背中合わせの孤独
うちの事務員さんは几帳面で、まじめで、必要以上に話しかけてこない。それはそれでありがたい。だけど、たまに「今日もお疲れ様でした」と言われると、心がほぐれる。逆に、何も言わずに帰っていく日は、自分だけが置いていかれるような気になる。彼女には家庭があって、帰れば家族がいる。その差が、いちばんこたえる。何気ない日常の中に潜む、さみしさの正体は「自分には帰る場所がない」と実感する、その瞬間にある。
冷めたコーヒーと終わらないファイル整理
いつの間にか冷めたコーヒーを片手に、書類を束ね直す。終わらせても誰にも気づかれない作業が、山ほどある。中間処理の登記書類をファイルしながら、ふと、「誰が見てくれるんだろう」と思う。評価されるわけでもなく、感謝されるわけでもない。でも、やらなきゃいけないからやる。それが仕事ってもんだろう。そう言い聞かせながら、今日もひとり、事務所の椅子に腰かける。静かな空間に響く紙の音が、余計に孤独を強調する。
ひとり暮らしの部屋に持ち帰る達成感と孤独
遅い時間に事務所を出て、薄暗い帰り道を歩く。家に着いても誰もいない。風呂を沸かしながら、テレビをつけるけれど、何をやっているかは頭に入ってこない。一日のがんばりを誰かと分かち合えるわけでもなく、ただ自分で「おつかれ」とつぶやくだけ。司法書士という仕事に誇りはある。でも、ひとりで抱える日々は、重たい。がんばった日の夜ほど、この空虚さが際立つのだ。
がんばりを共有する人がいない現実
「ただいま」と言える相手がいるだけで、人はどれだけ救われるんだろう。がんばった結果を褒めてほしいわけじゃない。むしろ、何も言わずにそばにいてくれる存在が、何よりの癒しになるのかもしれない。ひとりの時間が嫌いなわけじゃない。でも、がんばった日は、とびきり誰かと分かち合いたくなる。それが叶わないとわかっているからこそ、夜が余計に長く感じる。
LINEの通知が鳴らない夜の静けさ
昔は「通知がうるさい」と思っていたけど、最近ではLINEのアイコンが無反応なのが寂しい。誰かと繋がっていたいわけじゃないけど、誰にも必要とされていないような感覚に襲われる。SNSを開いても、誰かの幸せそうな投稿を見ると、ますます虚しくなる。がんばった日の夜に、沈黙だけが残るというのは、ちょっとした拷問だ。
「おつかれさま」って言葉が欲しかっただけなのに
特別なことを求めているわけじゃない。ただ、「今日も頑張ったね」って、誰かに言ってほしいだけだったのかもしれない。それだけで、たぶん心は救われる。でも、その「誰か」がいないのが現実だ。だからこそ、自分で自分に言うようになった。「おつかれさま、よくやったよ」って。虚しいけど、それでも言わないよりはマシだ。
昔の野球部の帰り道をふと思い出す
思えば、野球部の頃は、負けても勝っても誰かと一緒だった。練習終わりに自転車で帰る道すがら、どうでもいい話をしながら笑っていた。あの帰り道の安心感は、どこから来ていたのだろう。今、自分がひとりで歩く夜道は、なんだか違う。がんばった日の帰り道が、こんなにも寂しいものになるとは、あの頃は思いもしなかった。
ベンチでも声を出してたあの頃とのギャップ
レギュラーじゃなかった。でも、声は誰より出してた。誰かのプレーを応援することで、チームの一員だと感じられた。今は、自分でやって、自分で結果を出して、自分で振り返るだけ。声を出してくれる誰かもいないし、自分ももう声を出せなくなってる。応援されることも、応援することも減った今の生活は、あのベンチとは別世界のようだ。
あの頃は誰かと笑い合うことが当たり前だった
何かに失敗しても、誰かが笑ってくれた。苦しくても、みんなで乗り越えた。司法書士としての今の自分には、そういう時間がほとんどない。信頼されるのはありがたい。でも、人間らしさの部分は、あの頃の方が豊かだったかもしれない。がんばったあとに笑える場所、それが今の自分には足りない。
それでもまた朝は来るから
どれだけ夜がさみしくても、朝は来る。着信のないスマホを横に置いて、今日もまたファイルと向き合う準備をする。誰かに褒められることはなくても、頼られる限りやるしかない。孤独のなかに小さな誇りを持って、また一歩踏み出すしかないのだ。
誰かの役に立てたかもしれないという希望
「おかげさまで助かりました」という言葉を、今日もどこかで聞けるかもしれない。その一言だけで、心が救われる瞬間がある。自己満足かもしれないけど、誰かの力になれたという事実が、自分を支えてくれている。だからこそ、また事務所を開けるのだ。
静かな夜を越えてまた登記簿と向き合う
無音の中で書類を作成する時間にも、意味があると信じたい。がんばった自分を誰も知らなくても、自分が知っていればいい。仕事は孤独だ。でも、その孤独を抱えて生きていくしかない。誰にも会いたくない夜を乗り越えて、また明日もがんばれる。
がんばる理由は自分で決めていい
誰かに認められたいから、じゃなくてもいい。生活のため、誇りのため、ただの意地でもいい。がんばる理由は、自分が決めていい。誰にも会いたくない夜があっても、それでもまた朝に向かって歩いていけば、それだけで十分じゃないかと思う。