謎は定款から始まった
その依頼は、ひときわ分厚いファイルとともに、事務所に持ち込まれた。地方の冷たい雨が、依頼人の傘を容赦なく叩いていたのを覚えている。年の頃は六十前後、いかにも無口な男が、何かを隠しているように見えた。
「会社を解散したいんです。古い合同会社で、実体もなくて…」男はそう言ったが、手元の定款を渡すとき、視線が一瞬泳いだのを見逃さなかった。
その瞬間、私は直感した。――これは、ただの書類仕事ではない。
依頼人の表情と奇妙な要望
「できるだけ早く」「誰にも知られずに」と男は何度も繰り返した。手続きは急ぐこともできるが、隠すように進めるというのは話が違う。会社の登記には透明性が求められる。
「急ぎましょう」と答えながら、私はこっそり定款をコピー機にかけた。サトウさんがちらりと私を見たが、何も言わなかった。
やれやれ、、、また一癖ありそうだ。
第七条を巡る不自然な修正
定款を読み込んでいくと、奇妙な修正跡が目についた。特に、第七条「出資の払込方法」に鉛筆で消したような跡があり、不自然な空白があった。原本にしては雑だ。
「この定款、電子定款じゃなさそうですね。紙媒体で…しかも手書きの修正が?」と私がつぶやくと、サトウさんがすぐに反応した。
「原本、保管してませんでしたっけ?」冷たい口調の中に、妙な期待が混ざっていた。
条文に隠された不可解な一文
再確認すると、第七条には不明瞭な文字が浮かび上がっていた。「追加出資は代表社員の承認を得て行うものとする」。しかし、この条文の他の部分と字体が違っている。
「この一文、途中から誰かが差し込んだんじゃないか?」私が言うと、サトウさんがうなずいた。「それって…代表者の権限を強化する条文ですよね?」
つまり、誰かが後から自分に都合よく条文をいじった可能性があるということだ。
亡き発起人と二重の署名
登記簿を見ると、発起人として記載されている人物は三名。しかしそのうち一人――“佐久間浩三”は、数年前にすでに亡くなっていることが判明した。
だが、定款には彼の署名がしっかりと残っている。筆跡も他の書類と一致していた。
「死んだ人間が定款に署名してるって、どういうことよ…」サトウさんが書類を机に叩きつけた。たしかに、これは幽霊でも連れてこなければ説明がつかない。
過去の登記簿が語る矛盾
私たちは古い登記簿を辿ることにした。すると、一つ前の代表者変更登記が、どう考えてもおかしい日付で記録されていることに気づいた。
代表社員変更の日付が、佐久間が死亡した日と“全く同じ”なのだ。偶然にしては出来すぎている。
「これは、誰かが“死亡”と“登記”を意図的に重ねてきたってことかもしれないですね」サトウさんの言葉が、事務所の空気を冷たくした。
サトウさんの冷たい推理
「印鑑証明、ないですね」サトウさんが言った。「佐久間さんの。というか、そもそも会社設立時の払込証明も見当たりません」
彼女の指摘通り、資本金の払込口座のコピーも不自然に欠落していた。つまり、会社は実際には“設立されたことにしてあるだけ”かもしれない。
これはもはや、虚構の法人だ。
印鑑証明書の不在が示すもの
司法書士として言わせてもらえば、印鑑証明のない登記書類なんて、サザエさんの波平が髪を剃るくらいおかしい。つまり、やっちゃいけないのだ。
サトウさんは、すでに何かを確信しているようだったが、あえて言わなかった。代わりに、私の机の下を見つめて言った。「あのファイル、触りました?」
そこには、確かに数年前に預かったままの定款原案がホコリをかぶっていた。
シンドウのうっかりと偶然の発見
「やれやれ、、、こんなところに隠れていたか」私はうっかり放置していた自分の過去を恨めしく見つめた。
定款原案のコピーには、明確に“第七条の記載なし”と印が押されていた。つまり、後で誰かが勝手に追加したのは確定だ。
「これで決まりですね」サトウさんが、印鑑証明の偽造と代表者の不正登記を指摘する資料をそっと積み上げた。
やれやれ、、、机の裏に眠っていた原案
証拠はすべて揃った。あとは、法務局に報告し、民事と刑事の手続きを進めるだけだ。私は自分の手帳に「ファイル放置注意」と大きく書いた。
「まったく、こういうときに活躍するのが司法書士の醍醐味ですよね」とサトウさんが言った。だが、その言葉に私は素直に喜べなかった。
――どうせ次の依頼も、また何かあるに決まっている。
発起人名義の影武者
数日後、依頼人の“無口な男”が警察に連行されたと連絡が入った。彼は、佐久間の兄だった。弟の死を利用し、幽霊法人を使って資金を不正移動させていたという。
「影武者どころじゃないですね。死者の名義を操るとは、ルパン三世の次元でもやらない」
私は、サトウさんの冷ややかなジョークに乾いた笑いしか返せなかった。
別人の登記履歴と貸名のからくり
さらに調べが進むと、他にもいくつもの会社が、同様に幽霊の名義で運営されていたことが分かった。
名義貸し。今もあるようで、昔の商人の手口そのままだ。だが、それを悪用すれば、れっきとした犯罪になる。
司法書士とは、そういう微妙な境界を見極める職業なのだ。
すべては一行の空白から
きっかけは、ただの空白だった。誰も気にしないような定款の一行。それが、巨大な不正の糸口となり、真実を暴いた。
「やっぱり最後に勝つのは、地味でも地道なやつですよ」私は呟いた。誰に聞かせるでもなく。
そしてまた、今日も私は書類の山に囲まれている。やれやれ、、、終わりが見えないな。