説明は一度で済むと思ってた俺が甘かった

説明は一度で済むと思ってた俺が甘かった

説明は一度で済むと思ってた俺が甘かった

朝から始まる繰り返し地獄

朝の静けさを破るのは、パソコンの電源を入れる音でも、メールの通知音でもない。事務員の「先生、これってどうでしたっけ?」という一言だ。いや、それ昨日も言った。おとといも言った。ひょっとしたら、先週も言ったかもしれない。口の中で何かが乾いていく感覚。「またか」と思いつつも、やんわりと説明を始める自分がいる。でも、心の中では叫んでいる。「一度で覚えてくれ」。そんな日々の繰り返しが、朝の気力を削いでいく。

「昨日も言ったよね」の虚しさ

「昨日もお伝えしましたけど…」という言葉を、どれだけやんわり言っても、それはやはり棘になる。言った自分もイヤな気持ちになるし、言われた方もきっと良い気分ではない。だけど、心の中では「覚えてくれよ…」と泣いている。まるでゴンドラに何度も乗って、同じ景色を見ているような感覚。少し景色が違えばいいのだが、毎回同じ角度、同じ風、同じ説明。繰り返しの中で、こちらのモチベーションは摩耗していく。

聞いてないフリか本当に忘れたのか

時には、「これ前にも話しましたよね?」と問い返したくなる場面もある。が、そこをぐっとこらえて「もう一度説明しますね」と言う自分がいる。そのたびに、こっちの精神ポイントが1ずつ削れていく。これがゲームだったら、もう残機ゼロだ。事務員が本当に忘れているのか、それとも確認のつもりなのかは分からない。でも、一度で伝わらないことの連続に、こちらもだんだん信じる気力が薄れてくる。

期待した俺がバカだったという反省会

仕事が終わった帰り道、車の中でよく自己反省会が始まる。「なんであれを任せたんだろう」「あれ、ちゃんと説明したかな」「いや、ちゃんと説明したよな…?」と、自己否定と自己確認がぐるぐる回る。信じた自分が悪いのか、任せたことが早すぎたのか。ついには「期待した俺がバカだったんだ」と結論づけてしまう。だけど、その結論もまた明日には覆されて、「もう一度だけ期待してみるか」と思ってしまう自分がいる。

マニュアルを作っても読まれない現実

時間をかけて作ったマニュアル。見やすく、分かりやすく、丁寧にまとめたはずだった。にもかかわらず、「それ、どこに書いてありますか?」という質問が飛んでくる。書いてあるんだよ、そこに。それを言いかけて、「第3ページの真ん中あたりです」と言い換える。言いながら、心の中でマニュアルが泣いている。使われない道具ほど寂しいものはない。それが自分の労力の結晶ならなおさらだ。

文章化した努力が虚空へと消える

説明の手間を減らそうと、かつての自分は意気揚々と「業務フロー」を作った。ステップバイステップ、図付きで丁寧に。だが現実は厳しい。「読まない」「探せない」「面倒くさい」の三重苦。印刷して机に置いておいても、次に見るのはいつか分からない。努力が虚空に吸い込まれる感覚。「説明のいらない仕事」がどれほど尊いかを痛感する毎日。

「どこに書いてますか」攻撃の恐怖

説明したことをまた質問されると、「どこに書いてますか?」と逆に聞かれることがある。いや、それ、昨日説明したよね。記録もあるし、メモも渡した。でも、それでも「見つかりませんでした」と返されると、心がガクンと崩れる。責める気はない。でも、何かがポキンと折れる。どこに書いてあろうと、読まれなければ存在しないのと同じ。これはもう、幽霊と一緒だ。

紙の無力感とPDFの切なさ

PDFにしたファイルを共有しても、「プリントした方が見やすいですかね?」と言われ、仕方なく印刷する。その数時間後、「どこに置きましたっけ?」と聞かれ、またデータを送る羽目になる。紙もデジタルも同じ運命。読まれなければ意味がない。マニュアルは、使われて初めて価値がある。そう思うと、印刷した紙がただの飾りに見えてきて、ますます虚しさが募っていく。

説明をしながら自己嫌悪に陥るとき

「ああ、またこの話してるな」と思った瞬間、自己嫌悪の波が押し寄せてくる。イライラしてしまう自分、トーンが冷たくなる自分。本当は穏やかにやりたい。怒りたくない。でも、何度も同じ説明をしていると、どうしても感情が乗ってきてしまう。そして説明が終わるころ、自分の言葉に自分が傷ついていることに気づく。

声のトーンが徐々に冷たくなる自分

「あ、それはですね…」と説明を始めるとき、最初は穏やかな声のはずが、段々と無意識に冷たくなっていく。自分では気づかないふりをしてるけれど、確実に語尾が短くなるし、相手の反応を待たずに話してしまう。そんな自分に気づくと、あとでどっと疲れる。相手は何も悪くない、ただ理解に時間がかかってるだけなのに、こっちが勝手に苛立って勝手に落ち込んでる。

優しくしたいのに舌打ちが漏れそうになる瞬間

これはもう、自分の未熟さの証明でしかない。「何度目だよ…」という感情が込み上げるたび、口元がピクッと動く。舌打ちをぐっとこらえるのが、こんなに大変だとは思わなかった。人に優しくするって、想像以上に体力を使う。でも、ここで舌打ちでもしようものなら、その日は一日中自己嫌悪に苛まれる。だから、笑顔の仮面をかぶって、また同じ説明を繰り返す。

結局は器が小さいという現実直視

「あーあ、俺って器が小さいな」と、毎日何度も思う。小さなことでイラついて、後悔して、でもまたイラついて。その繰り返し。人の上に立つには、もっと寛容でなければいけないのに、それができない。結局、ストレスの受け皿が小さいだけなんだと痛感する。独立して良かったこともあるけれど、こういう時は誰かに責任をなすりつけたくなる。だけど、それができないのが個人事務所。逃げ場がない分、毎日が自己との戦いだ。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。