夢って語っていいものなのか迷う夜
夜、ふと手を止めて湯のみを手に取るとき、不意に自分の「夢」って何だったっけと考えることがある。司法書士として働き始めてもう20年近く。独立してからも十数年が過ぎた。最初は「独立する」「地元に貢献する」なんて立派なことを言っていた気がするが、今や書類と締切に追われる日々の中で、夢なんて言葉がどこか遠くなってしまった。そもそも、今さら夢なんて語ったところで、誰も聞いてくれないし、こっちも語るのが恥ずかしくなってきているのが正直なところだ。夢は心の奥にしまっておくべきものになってしまったのだろうか。
若いころは「夢は何ですか」と聞かれた
学生時代は、ことあるごとに「将来の夢は?」と聞かれた。特に野球部時代、目を輝かせて「プロ野球選手!」なんて言っていた自分が懐かしい。高校最後の夏、ベンチにも入れなかったあの日にその夢は静かに幕を閉じた。それでも、大学では法律の勉強に進み、司法書士を目指すという新たな夢を持った。当時はそれが誇らしくて、親戚の集まりや同窓会でも堂々と話していた。「すごいね」と言われるのが少しうれしかった。夢を語ることは、自分を肯定する行為でもあったのだ。
司法書士になってから夢を口にしなくなった理由
いざ司法書士になってみると、現実は思っていた以上に地味だった。登記のミスが命取り、細かい確認作業と膨大な書類の処理に追われる毎日。さらに地方では案件が限られ、営業もしなければ食べていけない。そんな中で、ふと「夢は何ですか?」なんて聞かれても、「まず今日の仕事をどう終わらせるかですよ」と苦笑するしかなくなる。独立開業も夢だったはずなのに、いざ叶ってしまうと、次の目標を語る余裕も勇気もなくなっていた。
夢を語ると苦笑されるようになった
大人になってから夢を語ると、「現実見ろよ」とか「まだそんなこと言ってるの?」という視線を感じるようになった。特に地元では、堅実さが評価される傾向が強く、夢を語ることが浮いてしまうのだ。「法人化してスタッフを増やして…」なんて話をしたときも、「まあ、そううまくはいかないよね」と先輩司法書士に軽く流された経験がある。あれ以来、胸の内にある希望を口にするのが少し怖くなった。笑われるくらいなら、黙ってた方が楽だと思ってしまう。
身近な人ほどリアクションが冷たい
不思議なもので、身近な人ほど夢に対して否定的な反応をすることが多い。家族や昔からの友人に話すと、「無理でしょ」とか「いまさら何を?」と返ってくる。悪気はないとわかっていても、やはり傷つく。最近では、事務員さんに「将来、相談業務にもっと力を入れたくてね」と言ったときに、「あ、それって儲かるんですか?」と素朴に聞かれて絶句してしまった。否定ではないけど、そういう方向の質問をされると、ああ、夢って言葉は現実と折り合わないんだなと痛感する。
仕事としての現実と向き合う毎日
日々の業務は想像以上に現実的だ。登記申請一つ取っても、スピードと正確さが命だし、顧客対応では無駄な夢想をしている暇はない。日常が常に「結果」で評価される世界にいると、夢は非効率で危険なもののように感じられてくる。何かに挑戦しようとすれば、まず「リスク」が頭に浮かぶ。それでも仕事自体が嫌いなわけではない。むしろ、好きだからこそ、自分なりの理想を追いたくなるのだが、なぜか口に出すのが怖いのだ。
それでも昔の自分に怒られそうな気がする
ときどき夢を諦めたようなことを口にして、自分で情けなくなる。「あの頃の自分に怒られるな…」と。司法書士を目指したあの情熱、独立開業したときのあの誇らしさ、それらはすべて夢だった。ならば、今この仕事を通じて何を実現したいのか、もう一度考える必要があるのではないか。夢が変わっただけで、無くなったわけではないのかもしれない。
夢を語っていた高校球児の頃
野球部時代、毎日汗まみれになりながら「甲子園行こうぜ!」と叫んでいた。あの頃は夢を語ることに何のためらいもなかった。負けても、恥をかいても、バカにされても、それが青春だと思っていた。いま考えれば、あのがむしゃらさは本物だった。今の自分に足りないのは、失敗を恐れず語る覚悟なのかもしれない。
あのときの情熱はどこへ行ったのか
合格したときの喜び、事務所を開いたときの希望、それらは確かに存在した。だがいつからか、日常に埋もれてしまった。書類に埋もれて、他人の都合に振り回されて、自分のビジョンが見えなくなっていた。情熱は消えたのではなく、見失っただけかもしれない。だからこそ、少しでも立ち止まって思い出すことが大事だと思う。
書類の山に情熱が埋もれていく日々
毎日、登記や相続の書類に囲まれて過ごしていると、情熱なんて言葉がどこか現実離れして聞こえてしまう。でも、それは仕事のせいではない。向き合い方を忘れてしまった自分の問題だ。やりがいはどこにでもある。事務所に来る依頼者の「ありがとう」がその証拠だ。
「好きな仕事」を続けているのになぜかつらい
この仕事が嫌いなわけじゃない。むしろ誇りを持っている。それなのに、どこか満たされない気持ちがある。たぶん、それは「こうしたい」という想いを口にできずにいるからだ。夢を語ることで、はじめて前に進めることもある。照れくささを超えて、少しずつでも言葉にしていこうと思う。
語らない夢と語れない現実
夢を語らないのは、自信がないから。語れないのは、笑われるのが怖いから。でもそれでも、心の奥ではまだ消えていないものがある。司法書士という枠の中で、それを形にしていくには、少しずつでも前に踏み出すしかない。
「夢を持たない方が楽」という罠
夢を持たなければ、失敗もないし恥もかかない。そう考えるのは簡単だ。でも、それは本当に楽な道なのか?目の前の仕事だけを淡々とこなす日々は、確かに安定しているかもしれない。でも、心のどこかが空っぽになっていく感じがしてならない。夢は、苦しさと引き換えに「生きている実感」をくれるものなのかもしれない。
誰にも言わずに温めている想い
最近、少しずつだけど新しい目標が生まれてきている。例えば、後進の育成とか、地域の無料相談をもっと充実させるとか。大それたことじゃない。でも、自分なりの夢だ。今はまだ人に言うのが照れくさいけど、少しずつ形にしていきたい。夢は声に出せなくても、行動で語れる。
同じように感じているあなたへ
もし、夢を語るのが照れくさくなったあなたがこれを読んでいるなら、少し安心してほしい。そんな風に思うのは、あなただけじゃない。誰だって夢をしまい込む瞬間はある。でもそれを「無かったこと」にしないでほしい。夢は、何度でも取り出して磨ける。
夢は声に出さなくても捨てなくていい
声に出すことがすべてではない。時には黙って抱えている夢の方が強く心に残ることもある。でも、それを完全に忘れてしまうのはもったいない。夢があるから、踏ん張れることもある。司法書士という仕事の中で、自分だけのやりがいを見つけていくこと、それもまた夢のひとつなのだ。
小さくてもいいから心の中に置いておく
人に言えない夢でも、自分の中でそっと持ち続けているだけで意味がある。ふとしたときに「そういえばこんなことやってみたかったな」と思い出せるように、小さな火を絶やさないようにしていきたい。誰かに認められなくても、夢は生きていける。
言葉にできる瞬間がまた来るかもしれない
今は照れくさくても、未来のどこかで「こういうことをしたかったんです」と堂々と言える日が来るかもしれない。その日のために、少しだけでも前に進んでおこう。司法書士として、ひとりの人間として、自分の夢に向き合う勇気を持てるように。
司法書士という仕事の中にある「夢のかけら」
この仕事には夢が詰まっている。人を助けること、街を支えること、法律の力で誰かの不安を取り除くこと。それは理想論ではなく、日々の業務の中に潜んでいる小さな夢だ。そのひとつひとつに気づきながら、これからも歩んでいきたい。