書類の山に埋もれて見えなくなったもの
朝の出勤、鍵を開けてドアを押し開けた瞬間、机の上に山積みになった書類が目に飛び込んでくる。「昨日あんなに処理したのに、なんで増えてるんだろう?」と苦笑いしながらコーヒーを淹れる。それでも毎日誰かの依頼がある限り、書類は終わらない。誰かの人生の一部を扱っているという責任感もあるが、その一方で、ふと「この山の中に、自分の人生はどこにあるんだろう」と思うときがある。気づけば、自分自身の予定も夢も埋もれてしまったような感覚に陥るのだ。
どれが仕事でどれが人生なのかもうわからない
「やりがい」という言葉を最後に使ったのはいつだったか思い出せない。依頼を受け、手続きをし、完了させる。それを繰り返す日々は確かに“仕事”としては機能しているけれど、そこに“自分”がどれだけいるかと言われると答えに窮する。若い頃はもっと明確だった。何を目指しているのか、どんな事務所にしたいのか、理想像があった。だが今は、「今日の山を片付ける」ことだけが目的になっているような日々だ。
朝が来るたび積み上がる紙の束
日が昇るより早く目が覚め、無意識に机に向かって書類をめくる。事務員が出勤するまでの静かな時間に、少しでも減らしておきたいという焦りと癖が抜けない。書類は誰かの人生の節目であり、その分慎重になるべきものだとわかっていても、数が増えればその分神経もすり減る。積まれた書類の一番下の案件が、もういつ届いたものか思い出せない日もある。
書類の山は誰かの人生の断片
登記や相続、会社設立や離婚、すべての書類には「人のドラマ」が詰まっている。でも、それを処理する側は感情を持ちすぎてもいけないし、流しすぎてもいけない。そのバランスに苦しむことがある。書類に感情移入しすぎると疲れるし、かといって事務的にこなすと無機質になってしまう。そうやって自分の感情を削り取って、今日も判を押す。
でもその中に自分の人生は含まれていない
誰かの未来を整える手続きをしているはずなのに、自分の将来の姿はそこには映っていない。登記簿に名前を連ねる人たちを見ながら、「俺は何の登記もできてないな」と思うこともある。家も買っていない、結婚もしていない、何かの権利も取得していない。人の書類を作るばかりで、自分の人生設計図はいつまでも白紙のままだ。
手続きの裏で削れていく自分の時間
「ちょっと急ぎでお願いできますか?」という電話がかかってくるたび、すでに詰まった予定がさらに圧縮される。でも、断れない。断ることで信頼を失うのが怖いし、たいていは本当に困っている人の声だから。それでも帰宅は深夜、食事はコンビニのパン、睡眠は浅い。気づけば、生活のすべてが“手続きの隙間”に押し込められていた。
予定を崩すのが当たり前になっていた
カレンダーにびっしりと書いた予定は、ほとんどが他人の都合で書き換えられていく。自分の通院も、散髪の予約も、後回しにすることに慣れてしまった。それが「大人の対応」だと自分に言い聞かせて。でも本音を言えば、自分のことくらい優先したい。そう思ったときには、もうそれすら面倒になっていた。
自分のことはすべて後回し
靴の底がすり減ってきているのに気づいても、買いに行く時間がない。健康診断の通知も机の端に積んだまま。日々の生活が最低限を切り続けていても、「今日も何とかやり過ごした」というだけで満足してしまう。そうやって、自分の人生がだんだんと「後回しの山」の中に埋もれていく。
それでもやめられない理由がある
「助かりました」「本当にありがとうございました」――その一言で、すべての疲れが報われたような気がする。自分の仕事が誰かの人生の一部にちゃんと機能した実感があると、まだやれる気がしてくる。誰にも認められないと感じることも多いこの仕事で、あの瞬間だけは“役に立った”という証明になる。
依頼者の「助かりました」が麻薬みたいに染みる
若い女性から「本当に安心しました」と言われたとき、恋に落ちたような錯覚すら覚えた。でも現実は、その人とはもう二度と会わない。相手にとって司法書士なんて、一度きりの手続き屋。それでも、ありがとうの一言で、次の日もまた書類の山に向かえる。皮肉だけど、それが今の原動力なのだ。
その一言で翌日も出勤できる
朝、布団から出たくない気持ちを引きずりながら、それでも着替えて出勤する。その理由は、「今日も誰かが困ってるかもしれないから」という漠然とした使命感と、昨日の「ありがとう」の余韻。自分の人生じゃなくても、誰かの人生に関われているという実感が、ぎりぎりの支えになっている。