年末調整で配偶者なしに丸をつけるとき心に刺さるものがある

年末調整で配偶者なしに丸をつけるとき心に刺さるものがある

年末調整の時期が来ると毎年少しだけ沈む理由

司法書士という職業柄、年末調整の書類は自分で用意して自分で提出するのが常。慣れてはいる。慣れてはいるが、この書類に毎年「配偶者なし」と丸をつける瞬間、胸にちくりとした痛みが走るのだ。数字の確認、控除の記入、事務的な作業の中で唯一、感情が顔を出す場所がそこにある。たかがチェック欄、されどチェック欄。ここだけは一年の現実を突きつけられるようで、ため息が漏れる。

書類に現れる自分の現状

書類というのは正直だ。嘘をつかせてくれない。特に年末調整のような書類は、その年をどう生きたか、淡々と表す無機質な証明書みたいなものだ。毎年、何も変わらない住所、変わらない扶養人数、変わらない婚姻状況。自分の人生が止まっているように見えるのは、書類のせいではない。でも、書類を見ると気づいてしまうのだ。変わっていないのではなく、変えられなかった一年だったと。

チェック欄の無言の圧力

「配偶者あり」か「配偶者なし」か。たったこれだけの二択に、自分の人生の流れが収まってしまうのかと思うと、やるせない気持ちになる。別に結婚だけが人生じゃないし、そう思いたい。けれども、「配偶者なし」に毎年ためらいなく丸をつけられてしまう自分に、どこかで諦めのような感情を覚えているのも事実だ。もしも冗談交じりに「来年は変わるかもね」と事務員に言われたとしても、返す言葉はなく、笑ってごまかすしかない。

名前と生年月日の隣に並ぶ虚しさ

書類の左上、名前と生年月日。そのすぐ下にある婚姻状況の欄。自分の個人情報と人生の節目が、こんなにも近い距離で並べられているのを見ると、書類なのに妙にパーソナルな気持ちになる。毎年記入するたび、「お前、今年も一人だったんだな」と言われているようで、ちょっとだけ心が重くなる。この欄にいつか変化が訪れる日が来るのだろうか。その可能性を否定しきれない自分と、もう信じない方が楽だと思う自分がせめぎ合っている。

毎年変わらぬ欄に変わらぬ〇をつける

何年も続けて同じ欄に同じように〇をつける行為は、無意識のうちに自己肯定感を下げているのかもしれない。これが「業務上のルーティン」と割り切れるほど、私は強くない。書類を作成しながら「はい、独身継続中です」と宣言しているようで、心がざわつくのだ。いっそAIが代わりに自動入力してくれたらいいのに、と思うことすらある。でもそれは、自分で受け止めきれていない証拠なのだろう。

配偶者なしの欄だけは迷いがない

他の項目は、少し確認が必要だったり、前年と変わっていないか再確認が必要だったりする。でも「配偶者の有無」だけは一発で記入が終わる。この潔さに、逆に虚しさを感じることもある。誰に相談するでもなく、誰かの収入や扶養状況に気を配る必要もない。すべてが自分一人で完結する。楽といえば楽なのだが、その裏にある孤独は、決して軽くない。

いつか変わると信じていたけれど

若い頃は、「そのうち誰かと結婚するんだろうな」と漠然と思っていた。周りもそういうものだと思っていたし、自分だけが取り残されるなんて想像もしていなかった。でも今、司法書士として地方で一人事務所を構え、年末調整を一人でこなす日々の中で、その「いつか」は、ただの幻想だったのかもしれないと感じるようになった。あの頃の自分に、少しだけ申し訳ない気持ちになる。

忙しさに紛れてごまかしてきたけれど

日々の業務に追われていると、自分のことを深く見つめ直す余裕などない。書類を作り、登記を回し、事務員とのやりとりに頭を使い、気づけば一日が終わっている。その繰り返しにどこか安心していたのかもしれない。自分と向き合わずに済むからだ。しかし年末調整のような節目は、否応なしに「今の自分」を突きつけてくる。逃げてきたものが、ふとした瞬間に目の前に現れる。

事務所と家の往復で終わる一年

私の一年は、事務所と家、その往復でほとんどが過ぎていく。趣味と言えるものも少なく、休日も結局は資料の整理や調べ物で終わってしまう。元野球部だった頃のように、体を動かすわけでもなく、仲間と笑い合うわけでもない。ただ静かに過ぎていく日々に、少しの張り合いとほんの少しの寂しさが混ざっている。そんな毎日でも、誰かのために仕事をしているのだと思えば、なんとか踏みとどまれる。

年末調整の紙が一年の棚卸しを迫ってくる

何となくやり過ごしていた一年も、年末調整の書類を見ると急に「反省会」のような気持ちになる。自分はこの一年、何をしてきたのか。どんな変化があったのか。そして、なぜ今年も「配偶者なし」のままだったのか。答えなどないとわかっていても、つい自問自答してしまう。年末調整は税金のための書類のはずなのに、どうしてこんなにも心の棚卸しまでしてくるのか、不思議なものだ。

書類にだけは嘘をつけない

誰にどう見られようと、自分のことをごまかすのは簡単だ。でも書類には嘘がつけない。特に税務関係の書類は、正確であることが絶対条件だ。だからこそ、余計に自分の現在地を突きつけられる。「まだ誰かと出会っていない」「まだ一緒に暮らす人はいない」。そんな事実が、ただの記号として浮かび上がる。記号にされた自分の人生が、少しだけ切なく見える。

それでも頑張る理由を再確認する

それでも、私は今日も司法書士として生きている。書類の中でひとりを確認するたび、自分はどうしてこの道を選んだのかを思い出す。そして、誰かの大切な手続きを任されるその責任が、自分を支えてくれていることにも気づく。配偶者の欄に〇がなくても、自分が意味のある仕事をしているという実感は、しっかりある。

誰かの手続きの安心になれているのなら

登記も相続も、法的な支えを必要としている人が必ずいる。私の仕事は、誰かの「不安」を「安心」に変えることだと思っている。配偶者がいなくても、家庭がなくても、そうした人たちにとっての縁の下の力持ちになれるなら、それでいい。年末調整のチェック欄がどれだけ空欄でも、自分の役割がそこにある限り、前に進めるのだと信じたい。

家族はいなくても支えている人はいる

事務所の事務員も、依頼人も、みんなそれぞれの生活がある。私はその一部に過ぎないかもしれないが、誰かの役に立てていることは間違いない。家族のように近い存在ではないとしても、人と関わり、信頼される仕事ができるというのは、何よりの財産だと思っている。結婚していないことを恥じる必要はない。そう思えるようになったのは、この仕事を続けてこられたからだ。

同じように頑張る誰かへ届けたい言葉

今、この記事を読んでいる誰かも、同じように「配偶者なし」に〇をつけているかもしれない。司法書士であれ、そうでなかろうと、この小さなチェック欄に引っかかる気持ちは、誰しも抱えうるものだと思う。だからこそ伝えたい。あなたは一人ではない。あなたの仕事も、あなたの存在も、ちゃんと誰かに届いている。私たちはそれぞれの場所で、それぞれの仕方で、ちゃんと生きている。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓