登記相談の静かな午前
一枚の戸籍謄本がすべての始まりだった
夏の陽射しがじわじわとブラインド越しに差し込む午前10時。 珍しく予約のなかったこの時間に、ふらりと現れたのは色白で無表情な女性だった。 手にしていたのは少し折れ曲がった戸籍謄本と、転籍届の下書きらしき紙切れだった。
妙な依頼人
本籍を変えたいという女の動機
「本籍を、彼の住所に変えたいんです」——その一言に、妙な違和感が走った。 婚姻届もなければ、同居の事実も確認できない。 それでいて、目は一切揺れていなかった。まるで、練習してきた台詞をただ口にしているように。
転籍届に潜む小さな違和感
戸籍の記録にある奇妙な日付
戸籍謄本を確認すると、前回の本籍地変更の日付がやけに最近だ。 わずか2ヶ月前にも、彼女は「本籍を変えていた」。 通常ありえない頻度での転籍——しかも今回は、その住所の住人に一切の同意もないという。
サトウさんの冷静な分析
女の話に潜む論理のほころび
「前回の変更と、今回の目的が一致していないですね」 書類を横目で見ながら、サトウさんがぽつりと呟く。 彼女はおそらく、転籍という手段を何かの“カモフラージュ”に使っている——そんな考えが、頭をよぎった。
やれやれ謎の香りがしてきた
司法書士は探偵ではないが
「やれやれ、、、また妙なのが来ちまったか」 自分の肩書きは司法書士であって探偵ではない。 だがこういう事態になると、どうしても猫目のあの怪盗や、麻酔銃を持った小学生探偵の顔が頭をよぎる。
旧本籍地に向かう二人
廃屋になった家と隣人の証言
調査のため、旧本籍地を訪ねた。地図上では存在するが、そこは既に空き家となって久しい古い平屋だった。 「ずいぶん前に娘さんが一人で帰ってきて、それっきり見かけてないね」——近所の老婆の言葉に違和感。 この「娘さん」が、今の依頼人と本当に同一人物なのかという疑問が、頭をもたげた。
戸籍の記録改ざんの可能性
筆跡と印鑑の不一致
登記に添付されていた印鑑証明の印影が微妙に異なっていた。 ついでに、転籍届の署名欄も、前回のものと比べて書き癖が違っているように見える。 これはもしかすると、誰かが別人になりすまして本籍を移していたのではないか。
浮かび上がる過去の失踪事件
本籍を移す理由は隠蔽だった
三年前、この地域で一人の若い女性が行方不明になっていたという古い新聞記事を見つけた。 名前も年齢も、今回の依頼人とぴたりと一致する。 しかし戸籍上では、彼女は“ちゃんと生きて”何度も転籍を繰り返しているのだ。
サトウさんの推理が導いた真相
失踪者は依頼人の妹だった
「本人じゃないですね。姉妹です。生きているように見せかけて、姉の戸籍を利用してた」 そう断言したサトウさんの視線は冷たかった。 戸籍上“生き続けていた”姉の身分を、妹が使って何かを隠そうとしていた——例えば借金や逃亡、あるいはもっと重い罪。
戸籍は記録であり証拠でもある
司法書士の仕事は紙の中にも人を見る
法的にはたった一行の訂正で済む“本籍の移動”も、裏には人生を左右する真実が潜んでいることもある。 登記簿の文字や印影の一つひとつに、重さがある。 俺たちは紙を扱っているんじゃない、人の生き様を受け止めているんだ。
依頼人の涙と最後の願い
家族になりたかっただけという嘘
「彼の戸籍に入っていれば、私もきっと守ってもらえると思ってたんです」 女は泣きながらそう言ったが、それは本音ではなかった。 戸籍の移動はただの“偽装”——だがその動機の中に、ほんの少しの孤独と温もりを感じてしまった。
静かに閉じる午後の事務所
戸籍一枚にも重さがある
その日の午後、事務所に戻った俺は、サトウさんに缶コーヒーを差し出した。 「また変な事件だったな」 サトウさんは「いつも通りです」とだけ言って、黙々とパソコンを叩いていた。