今日は誰とも話してない日がまた終わる
気づけば声を出さずに終わった日
夕方、ふと気づいた。今日は誰とも話していない。電話もメールもあったが、どれも事務的なやりとりで、声を出す必要がなかった。司法書士の仕事は、意外と人と会わない。書類と向き合い、パソコンと格闘し、静かに過ぎていく時間。そんな一日が終わろうとしているとき、ふと「今日は自分の声を発してないな」と思ってしまった。誰かと話したいわけじゃない。だけど、「声を出していない自分」が急に異物のように感じる瞬間がある。
朝から誰とも目を合わせていない
事務所のドアを開けたときから、誰の視線も感じていない。事務員さんは有給、宅配便も来なかった。朝、インスタントのコーヒーを入れて、机に向かっていつもの登記オンライン。登記完了通知が届いても、見せる相手もいない。駅前のコンビニに寄ったけど、セルフレジだった。店員さんは目も合わさず、後ろの棚を見ていた。誰かと視線が交わるだけで、何かが違ったかもしれないのに。目が合うことすら、ない日がある。
セルフレジのありがたくなさ
便利なはずのセルフレジ。並ばずに済むし、小銭も使わなくていい。けれど、あの無機質な機械の前に立つと、少しだけ気持ちがすり減る。店員さんが「温めますか?」と聞いてくれるだけで、「今日も人と関われた」と感じることがあった。今では画面にタッチするだけ。人の声も表情も挟まらない。「温めるかどうか」なんて、小さなことなのに、誰かと接するかどうかを決める大きな要素だったのかもしれない。
無人でも人がいる気配が欲しかった
無人レジや無人販売所、非対面の手続きが増える中で、「人がいない空間」に慣れてしまった。でも、慣れていいものなのか。声をかけなくていい、目も合わさなくていい。そんな環境に身を置いてばかりいると、「人と関わるのが面倒」という感覚が強化されていく気がする。それがさらに孤独を深めていく。無人でもいい。だけど、どこかに「誰かがいる」という気配だけは欲しい。機械の中に、人の体温は宿らない。
司法書士という職業の孤独
この仕事を選んだとき、「一人でもできる仕事」というのは魅力の一つだった。だけど今、それが仇になっている。書類とにらめっこし、法務局や裁判所と書類でやり取りする毎日。人と関わるようでいて、実際は顔が見えないことが多い。お客様も最低限のやり取りで済ませたがる時代。便利になった分、人の気配がどんどん削られていく。その便利さが、日々の寂しさを加速させているのかもしれない。
書類とだけ向き合う時間が圧倒的に多い
机の上には依頼書、登記申請書、委任状…。一日中誰とも話さずに、黙々と作業できてしまうのがこの仕事の特徴だ。時には「誰か手伝ってくれ」と叫びたくなるが、そんな叫びを聞く人もいない。書類の山は、話し相手にはなってくれない。昔は「誰にも邪魔されずに仕事ができるって最高だ」と思っていた。でも、今ではそれが地獄の入口みたいに思えてくる。静かすぎる空間は、心の中の不安を増幅させる。
会話はメールかFAX 相手の顔が見えない
司法書士の仕事の多くは、相手と直接会わなくても進められる。依頼も完了報告も、メールかFAXで済む。効率はいい。でも、それが人間関係を希薄にしていく。相手の声も表情も知らないまま、手続きだけが完了していく。「この人、どんな顔してるんだろう」と思いながら仕事を進めるのは、どこか虚しい。もしかすると、向こうもこちらに対して同じように思っているのかもしれないけど、それを確かめるすべもない。
お客さんとのやりとりは事務的になりがち
「お世話になっております」「添付いたします」「よろしくお願いいたします」──このテンプレートだけで一日が終わる。事務的で丁寧だけど、感情がない。お客さんの事情や背景を知る前に、手続きだけが片付いてしまう。昔はもう少し会話があった気がする。「先生、ちょっと愚痴聞いてくれる?」なんて言われたこともあった。今では「必要最低限」のやりとりに絞られてしまい、心の通い合いはどこかへ消えた。
感情のない会話に心が乾く
「〇〇株式会社の代表取締役の変更登記の件ですが」「はい、登記完了しました」──それだけで終わる日がある。感情を込める余地がない。相手が喜んでいるのか、安心しているのか、それすら伝わらない。人と接しているようで、実際には接していない。そんな日が続くと、心が砂漠のように乾いていく。気づいたら、自分の声のトーンまで淡々としていて、まるで録音された音声のようになっていた。
事務員さんともうまく距離が取れない日
たった一人の事務員さん。頼れる存在ではあるけれど、だからこそ気を使う。こっちが忙しいときほど、余計に距離を感じてしまう。ちょっとした言葉が出てこない。「今、話しかけてもいいのか」「機嫌を損ねたらどうしよう」と考えているうちに黙ってしまう。気を使いすぎて話せなくなる。それがまた寂しさを増す。話す相手がいるのに話せない。この距離感こそが、孤独の正体なのかもしれない。
変に気を使われても余計につらい
「先生、疲れてます?今日はそっとしときますね」──優しい言葉だけど、逆にグサッとくる。たしかに疲れてる。でも、たぶん誰かと一言話すことでほぐれる疲れもある。放っておいてほしいときもあるけど、放っておかれるときほど寂しく感じる日もある。「今日は話しかけない方がいいかな」なんて気を使われると、自分の存在が腫れ物みたいに思えてくる。優しさがときに距離を作ってしまうというのも、つらい現実だ。
ちょっとした世間話ができない自分に落ち込む
天気の話でもよかった。昨夜のテレビでもよかった。でも、その「一言」が出てこない自分が情けない。相手にとってはどうでもいい話でも、自分にはその一言が大きな一歩だったりする。「あ、話しかけてくれた」──それだけで救われる日がある。でもそれを期待しすぎて空回りする日もある。世間話が苦手なのは昔からだけど、今はそれが深い孤独につながっている気がして、どんどん自分の殻に閉じこもっていく。