誰にも悩みを打ち明けられないという現実
司法書士という仕事をしていると、日々さまざまな相談を受け、冷静であることが求められます。けれども、自分の悩みを誰かに打ち明ける場面というのは、意外と少ない。いや、正直に言えば「ない」に近いです。相談を受ける立場である以上、弱音を吐くことに躊躇してしまうし、家に帰っても話す相手がいない。そんな生活を10年以上続けてきたけれど、最近その重さに気づき始めています。
事務所の中ではいつも平静を装っている
毎朝、机に座ってパソコンを立ち上げ、事務員さんに「おはよう」と声をかける。電話対応、登記手続き、郵送物の整理。どれも淡々とこなすのが日常です。だけど、本当は「どうして自分ばかりこんなに忙しいんだろう」とか、「またあの案件でトラブルか…」と、心の中では愚痴が渦巻いているんです。でも、そんなこと表に出せません。たった一人の事務員さんに、こちらの心の重荷まで背負わせるわけにはいかない。だからこそ、誰にも気づかれないまま、自分だけが我慢するという状態になってしまいます。
家に帰っても誰とも話さない夜
一人暮らしの部屋に帰ると、誰にも「おかえり」と言ってもらえません。コンビニで買った弁当をレンジで温め、テレビをつけて、誰の返事もない中で「今日も疲れたな」とつぶやいてみる。それが日常です。最初は楽でいいと思っていた静かな夜も、今ではむしろ寂しさの象徴になっています。自分のことを何も知らないテレビの向こうの世界だけが、唯一の話し相手のように感じてしまう日さえあります。
テレビの音だけが部屋に響く
ニュースキャスターの声、お笑い番組の笑い声、誰かの物語。それらが、がらんとした部屋の中にただ響いている。その音がなければ、自分の溜息の音すら響いてしまうほど静かなんです。気づけば、誰とも目を合わせず、言葉も交わさず一日が終わることもある。こんな孤独な日常を過ごしている自分に、ふと「大丈夫か?」と問いかける瞬間があるけれど、それに答えてくれる声はどこにもありません。
寂しさに慣れたふりをしてしまう
「一人が気楽だし、他人に気を使わずに済む」そんな言い訳を、これまで自分に何度もしてきました。でも本音は違うんです。誰かに話を聞いてもらいたい、笑い合いたい、愚痴をこぼしたい。それが人間の自然な欲求であるはずなのに、それを押し殺してしまう癖がついてしまっている。寂しさに慣れたふりをすることで、余計に自分の中の声を閉じ込めてしまっていたことに、ようやく気づきました。
相談できる人がいることのハードルの高さ
「相談していいんだよ」「話して楽になるよ」と言われたとしても、実際にはその一歩がとても遠い。そもそも、誰に何をどこからどう話していいかわからない。友人とは疎遠、家族には心配をかけたくない、仕事仲間とは利害関係がある。そんな中で、「誰かに話す」という選択肢がぐんと狭まっていきます。いつの間にか、相談できる人が一人もいないという状況に自分がいることを、現実として受け止めざるを得なくなっていました。
本音を出す場所がない司法書士という仕事
士業という立場上、常に冷静で理論的、誠実であることが求められます。その期待に応えようと頑張るほど、自分の感情を見ないふりしてしまう。そしてそれが長年積もると、ふとした瞬間に「自分が何を感じているのかすら分からない」という状態に陥ってしまう。そういう意味でも、本音を話す場所がないというのは、自分を見失うことにもつながる危険をはらんでいると思います。
頼られる側は弱音を見せにくい
「先生」と呼ばれる立場は、意外と孤独です。クライアントからは頼られ、事務所のスタッフからは相談される。でも、自分は誰にも相談できない。自分が頼る相手を作ってしまったら、どこかで「この人に任せて大丈夫か?」と思われてしまうのではないかと不安になるんです。そうやって、どんどん殻の中に閉じこもってしまい、気がつけば「誰にも頼れない人」になってしまっている。このジレンマは、私に限らず、多くの司法書士に共通しているのではないでしょうか。
士業の孤独は誰にも気づかれにくい
見た目にはちゃんと仕事をして、書類をこなして、登記も滞りなく処理されている。だから周囲からすれば「この人は安定していて、問題なんてなさそう」に見えるでしょう。でも実際の内側では、不安やプレッシャー、孤独が渦巻いている。だけどそれは表に出さないし、出せない。だから誰にも気づかれないし、誰も心配しない。そんな状況が長く続くと、自分でも「もう、気づかれなくていいや」と思ってしまう。その先には、感情を置き去りにした空っぽの自分がいるだけです。
同業者にもなかなか言えない
同じ司法書士同士なら話せるかと思いきや、これがまた難しい。同業者の集まりではどうしても“ちゃんとしてる風”を演じてしまうし、うっかり本音をこぼすと「あの人、疲れてるんだな」とか「余裕ないんだな」と思われかねないという不安があります。実際には同じように悩んでいる人も多いはずなのに、それを言い出せる雰囲気がない。だからこそ、孤独がさらに深まっていくように感じます。
愚痴をこぼす場が意外とない
昔は野球部の仲間と居酒屋でくだらない愚痴を言い合っていたものですが、今はそういう場もなくなりました。仕事の愚痴、体調のこと、将来の不安、恋愛の話、何でもないような会話の中で、自分の気持ちがちょっと楽になった記憶があります。愚痴は決して悪いことではなく、むしろ自分を守るために必要なガス抜きです。でもその機会が極端に少ない今、どこかで爆発してしまう前に、意識的に「吐き出す」場を作るべきだと思い始めています。
愚痴を言えるだけで救われる日もある
愚痴を言うことは、甘えではありません。むしろ健全な心の反応です。「誰にも言えない」ことが続くと、次第に心の中で不満や不安がこびりついていってしまいます。そんなとき、たった一言でも「それ、分かるよ」と言ってくれる相手がいれば、それだけで救われるものです。だからこそ、自分が愚痴を言えるような関係や場を、自ら作っていく努力も必要だと感じています。
相手がいなくても声に出してみること
最近は、誰もいない部屋で独り言を言うようになりました。「ああ、今日も疲れた」「なんでこんなにイライラしてるんだろう」など、声に出すだけでも少しスッキリします。不思議なもので、声に出すと、自分の気持ちが少しだけ客観的に見えてくるんです。相手がいなくても、気持ちを声にすることは、自分を守る手段のひとつ。まずはそこからでも十分だと思っています。
話せる相手を探す努力はしていい
「誰にも言えない」は永遠ではありません。年齢や職業、肩書にとらわれずに、自分の心を預けられる相手を探してもいいと思います。話すことが前提ではなく、ただ「話せそうな雰囲気」の人を意識して探すだけでも、何かが変わるきっかけになるかもしれません。昔の野球部の仲間に久々に連絡してみたことがあるのですが、思いのほかすんなり話せて、救われたことがあります。
仕事関係者ではない第三者の存在
身内でも同業者でもない、利害関係のない第三者とのつながりは、思っている以上に貴重です。カウンセラーやコーチ、地域の交流会など、あまり気を張らずに話せる場に身を置くだけでも、心のバランスが保ちやすくなります。「話す練習」のつもりで、少しずつでも外と接点を作ってみるのは、今の私の課題のひとつでもあります。
無理して仲間を作る必要はないが
無理して友達を増やす必要はありません。ただ、誰かに話す準備をしておくこと、話したいと思える自分でいること。そのために日々、自分の気持ちを置き去りにしないようにすること。それが、いつか本当に話したい相手に出会えたとき、自分自身をしっかり伝えられるようになる第一歩だと思います。
一人の時間が多いからこそ気をつけたいこと
一人でいることは悪いことではありません。でも、誰とも話さない日々が続くと、自分の気持ちがどんどん鈍くなっていく気がします。だからこそ、心の声に耳を澄ませ、自分の機嫌を自分で取ることが大切になります。仕事もプライベートも、何となくで流さず、自分の気持ちをちゃんと見つめ直す。それが、孤独と上手につきあうコツなのかもしれません。
自分の気持ちを放置しない習慣
忙しい毎日を理由にして、自分の気持ちを後回しにしてしまいがちです。でも、それが積み重なると、ある日突然「もう無理だ」と限界がやってくる。だからこそ、日々少しでも「今日はどんな気持ちだったか」を振り返る習慣を持ちたいと思っています。スマホのメモでもいいし、ノートに一行だけ書くのでもいい。自分を丁寧に扱うこと、それが今の自分に必要なことです。
感情の蓋を開けるタイミングを作る
感情を閉じ込めていると、だんだん自分が何を感じているのか分からなくなります。時々でいいから、思いっきり泣く、怒る、笑う、そんな時間を作ってみることが必要です。映画を見てもいいし、音楽に身を任せてもいい。心を動かす瞬間を意図的に作ることで、感情の蓋を少しずつ開けていくことができる。自分の感情をちゃんと感じられるようになることで、誰かに話したくなる瞬間も自然と訪れるのだと思います。