登記の完了はゴールではない
登記手続きが無事に終わったとき、依頼者から「ありがとうございました」と言われる。そこで一応の区切りはつく。しかし、こちらの心にはなぜか澱のようなものが残る。誰かの人生の節目に関わるというのは、想像以上に重い。特に相続や離婚など感情が交錯する案件では、法的な整理と心の整理はまったく別物だと痛感する。書類上は完璧でも、依頼者の表情にモヤが残ると、自分もなぜか晴れないのだ。
手続きは終わったのにモヤモヤが残る
例えば、ある女性の相続登記。亡くなった母の名義を自分に変更するだけの手続きだった。でも、最後に「これで母がいなくなったって、実感してしまいそうで怖いんです」とぽつり。そう言われた瞬間、印鑑を押す手が止まった。法律的には淡々と処理していく案件でも、感情の重みがずしりとのしかかってくる。このモヤモヤは、業務外なのに、なぜか責任のように背負ってしまう。
依頼人の涙に飲み込まれそうになる日もある
ある日は、登記の相談のはずが、ほとんど人生相談だったこともある。「夫が亡くなって、親族とは疎遠で…」と話しながら涙をこぼす高齢の女性。自分の事務所はカウンセリングルームではないと分かっていながらも、話を遮ることはできなかった。静かな午後、事務員がいない時間帯に、ただ黙ってその涙を見守るしかなかった。書類に涙の跡が残っていたのが、今も頭から離れない。
感情の整理は専門外ですと割り切れない現実
法律家として、「感情までは扱いません」と言ってしまえば楽だ。でも、それで片づけられない自分がいる。割り切れないのは性格のせいかもしれない。依頼人の人生に触れることで、自分の中にも何かが積もっていく。積もるだけ積もって、心の中に残っていく。処理する術がなく、結局自分の心の整理はいつも後回しだ。
心の整理は誰がやってくれるのか
「自分の感情のメンテナンスは誰がしてくれるのか?」そんな問いが、ふと浮かぶ。登記という仕事は形式的な側面が大きいが、その裏には人の生死や人生の転機がある。その空気に触れてばかりいると、自分の感情まで削られていく。けれど、相談できる相手もいないまま、今日も淡々と仕事をこなしてしまう。
他人の問題に寄り添う職業の宿命
司法書士という職業は、時に自分の問題よりも他人の問題を優先する。それが仕事の性質だ。だが、だからといって人間らしい心がなくなるわけじゃない。たとえば、相続登記の書類を作成しながら、ふと「もし自分が死んだら誰がこの事務所を片付けるんだろう」と思ったことがある。そんな思考が、何の前触れもなく日常に割り込んでくる。
共感しすぎて自分を後回しにしてしまう
依頼人の話を聞きすぎると、気づかないうちに自分を見失っていることがある。かつて、登記の相談中に自分の両親のことを思い出し、頭が真っ白になったことがあった。親のこと、独身のままの自分のこと、老後の不安——そうした感情が一気に噴き出す。だが、それでも笑顔で「大丈夫ですよ」と言ってしまう。共感しすぎて、自分の整理ができなくなっている。
ふとした瞬間に溜まる感情の澱
夜、コンビニ帰りの道すがら、ふと泣きそうになることがある。別に何か嫌なことがあったわけでもない。ただ、今日一日、人の心の重さに触れすぎたせいか、胸の奥がずっとザワザワしている。そんな日は、ビールを開けても、ラジオをつけても、なんだか空虚。心の整理って、どうやればいいのか、未だにわからない。
忙しさに紛れて自分を見失う
日々の忙しさに飲み込まれると、自分の感情や疲れに気づけなくなる。朝から晩まで登記、相談、郵送、電話、そして事務員のフォロー。ひとつひとつはこなしていても、気がつくと自分の心がどこかへ置いてけぼりにされている。そんな日々が何週間も続く。
登記書類は完璧でも心は散らかっている
書類は整っていて、ハンコも間違いなく押されている。でも、自分の部屋は散らかり放題。心の状態がそのまま表れているような気がする。家に帰ると、誰もいない部屋。カバンを置いたまま、テレビもつけずに床に突っ伏すこともある。そんな自分が「ちゃんと仕事してる」と言えるのか、ふと疑問になる。
机の上と気持ちの中の整理整頓のギャップ
事務所の机はきれいに整えてある。来客があっても恥ずかしくないように。それでも、心の中は乱雑なまま。未整理の感情、放置した思い、言いかけてやめた言葉たち。そんな心のゴミを、誰が回収してくれるのか。仕事が終わってドアを閉めた瞬間、それらが一気に押し寄せてくる。
疲れたときほど出てくる昔の夢
ふとしたとき、野球部だったころのことを思い出す。汗まみれで白球を追っていたあの頃は、こんなふうに心をこじらせることはなかった。登記も、手続きも、人間関係もなかった。ただ「今日の自分を全力でやり切る」だけでよかった。今は違う。疲れているときほど、過去の夢や輝きが、やけにリアルに浮かんでくる。
司法書士の顔の裏にある本音
「先生は頼りになる」と言われるたびに、心の中で小さく謝っている。「本当はそんなに強くないんです」と。でも、それを表に出すわけにもいかず、今日もまた平然とした顔で業務をこなす。そんな顔の裏で、誰にも見せない本音がうごめいている。
事務員の前では平然を装う日々
事務員は20代の女性で、気が利く。ありがたい存在だ。でも、年齢も違えば、人生観も違う。弱音を吐けば引かれてしまいそうで、つい無理してしまう。おじさんの愚痴なんて聞きたくないだろうと思って、今日も「大丈夫そうな顔」をしている。しんどいのに、それがバレるのが何より怖い。
「大丈夫ですよ」の裏で息切れしている
「先生、今日の書類、大丈夫そうですか?」と聞かれ、「うん、大丈夫」と答える。その言葉の裏で、頭は回っていないし、心は少しささくれている。でも、返す言葉が見つからないから、大丈夫としか言えない。そんな言葉が毎日、少しずつ自分を削っていく。気づいたときには、もうずいぶん疲れていた。
支える立場だからこそ、誰にも頼れない
司法書士は、人を支える職業だ。だからこそ、自分が誰かに寄りかかることが許されないような気がしている。でも、支える側も人間だ。疲れるし、迷うし、落ち込む。それを素直に吐き出せる場所がない。登記の仕事が終わった夜、真っ暗な帰り道で思う。「たまには誰かに、手続きじゃなくて、気持ちを整えてほしい」と。