寂しさに負けて帰れなかった夜

寂しさに負けて帰れなかった夜

寂しさに負けて帰れなかった夜

ふと気づけば夜の事務所にひとり

カチカチとキーボードを叩く音が、自分の呼吸音よりも大きく感じる。時計の針はとっくに定時を過ぎ、事務員も「お先に失礼します」と言って帰っていった。なのに、なぜか自分だけが椅子に腰掛けたまま、書類の山と向き合っている。片付けても片付けても終わらないのは仕事のせいじゃない。正直に言えば、帰りたくなかった。ただそれだけだった。誰もいない部屋に帰るのが、なんだか負けた気がしたのだ。

誰にも頼られない夜が怖かった

誰かに感謝されるとか、必要とされる感覚が、いつの間にか心の支えになっていた。司法書士という仕事は、依頼されてこそ存在意義がある。でも一日中誰からも電話が来なかった日や、無言で書類だけ置いていく依頼者に会った日は、妙にこたえる。夜になっても、誰からも頼まれなかったという事実が重くのしかかる。そんな日は、意味もなく残ってしまう。無意識のうちに、今日も誰かに必要とされたと錯覚したくて、残業という名の独り相撲を続けてしまう。

帰っても声をかけてくれる人はいない

家に帰ってまず聞こえるのは、冷蔵庫のモーター音だけだ。玄関を開けても「おかえり」と言う声はないし、テレビをつけても虚しさが増すばかり。若い頃は「ひとりの時間が好き」なんて強がっていたけれど、年を重ねるごとに、そのひとりの時間の重さが増してきた。職場にいる間は、仕事という仮面をかぶっていられる。家に帰ると、それを外さなきゃいけない。でも外した自分を受け入れてくれる相手がいない。だから帰るのが怖くなるのだ。

明かりがついているだけで安心だった

事務所の天井灯は、明るすぎるくらいに事務机を照らしてくれる。あの明かりがついているだけで、自分はまだここにいていいんだと思える。誰かに頼られた証としてのファイルや書類、郵便物が置いてあるデスク。そこに囲まれていると、「まだ終わっていない何か」が自分をここに留めてくれる気がして安心する。明かりが灯る場所は、まだ役割が残っている場所。そう思わないと、夜道がやけに暗く見えてしまう。

仕事をしているふりで保っていた心

作業中といいながら、同じ画面を何分も眺めていたり、謎にファイル名を整えているだけだったり。そんな「しているふり」の時間が増えてきた。忙しいふりをして、寂しさから逃げている自分がいる。事務員が帰ったあと、メールチェックや見直しと称して、誰にも見られていない空間で自分をなだめている。そんなことをしているうちに、夜はどんどん深くなっていく。けれど不思議と、「何もしていない」という罪悪感はない。ただ、「誰かといたい」だけなのだ。

残業ではなく自分の居場所探しだった

「遅くまで頑張ってますね」と言われると、どこか誇らしかった。だが、実態は全く違う。自分はただ、自分の居場所を探して彷徨っているだけだった。事務所は静かで安心できるけれど、心の中はやかましいほどに考えごとが巡っていた。なぜこんなにも帰れないのか。なぜこの静寂が怖いのか。思考の隙間を埋めようと、意味のない仕事に手をつけてみる。でも埋まらない。本当は仕事ではなく、誰かとの関係が欲しかっただけなのだ。

予定のない夜は長くて重い

スケジュール帳に何も書かれていない夜。そんな日はとても長く感じる。何かを観るわけでもなく、誰かと話す予定もない。宅配ピザのメニューを見ても、頼む気力が湧かない。仕事が詰まっているときは、「早く終われ」と思っていたくせに、いざ自由な時間があると何をしていいのかわからなくなる。結局その長さと重さから逃げたくて、仕事にすがってしまうのだ。予定のない夜こそ、心の隙間が浮き彫りになる。

誰かと比べてしまう帰り道

帰り道、駅のホームやコンビニで見かけるカップル、家族連れ、電話をしている誰か。そんな姿を見るたび、心のどこかで「自分は何をやっているんだろう」と思ってしまう。昔の同級生は家庭を持ち、子どもの話をする年齢になっている。こちらは夜遅くまで事務所でひとり。誰かと比べるつもりはなくても、気がつけばその比較に引きずられている。比べたところで何かが変わるわけじゃないのに、それでも、帰り道の足取りは自然と重くなる。

元野球部のくせに弱音ばかり

昔はもっと強かった気がする。野球部でキャプテンをやっていた頃は、弱音を吐くなんて許されなかった。あの頃は仲間がいて、勝っても負けても分かち合える相手がいた。でも今はどうだ。ひとりきりの勝負。どんなに頑張っても、誰にも褒められないし、負けても励ましてくれる人はいない。気づけば、弱音ばかり吐いている自分がいる。情けないとわかっていても、もう隠せない。誰かに聞いてほしいだけなのかもしれない。

チームプレーが懐かしくなる夜

ひとりで抱える仕事の山。誰かにバトンを渡すことも、誰かのミスをカバーすることもない。すべてが自分の責任だ。それが司法書士という職業だとわかっていても、ときどき無性にチームプレーが恋しくなる。ミスしても笑って許し合えた、あの頃の仲間たち。文句を言いながらも一緒に頑張った部活の風景。今は、その笑い声すら思い出の中にしかいない。夜の事務所でひとりになったとき、その懐かしさがじわっと心にしみる。

声をかけてくれる同期ももういない

独立してからというもの、同期と顔を合わせることもほとんどなくなった。年賀状のやり取りすら減ってきて、近況を知る術もない。「今度飲もう」と言われたまま数年が経った。かつては事務所で愚痴を言い合った仲間も、今は家族や部下に囲まれているのだろう。ふとLINEの履歴を見ても、最後にやり取りしたのはいつだったか覚えていない。あのときの「またね」が、こんなに遠くなるとは思ってもみなかった。

ガッツはどこに置いてきたのか

若い頃は「オレに任せろ」と息巻いていた。寝る間を惜しんで仕事をして、成績に一喜一憂していた。でも今はどうだ。ガッツなんて言葉はどこかへ行ってしまった。責任感だけが肩に重くのしかかって、ただこなすだけの日々。たまに昔の自分を思い出して、「あの頃はよかったな」と苦笑いする。それでも今日も一応、誰もいない事務所の机に座っている。もしかしたら、まだそのガッツをどこかで待っているのかもしれない。

事務員が帰った後に思うこと

事務員が帰ったあとの静寂は、耳に痛いほどはっきりしている。さっきまでのキーボード音も、書類をめくる音も消えて、今この空間に生きているのは自分だけ。ああ、またひとりか、という気持ちが押し寄せる。別に恋愛感情があるわけではない。ただ、誰かの気配があるというだけで、こんなにも救われていたんだと気づかされる。結局、自分は誰かと一緒にいたいだけなんだと思う。人間って、勝手なものだ。

笑い声が消えた瞬間の静けさ

「これ、先生見てください」と言って持ってきた書類のミスに二人で笑ったあの声が、まだ耳に残っている。大したミスではないけれど、あのときの空気があったからこそ、心がほどけた。だけど事務員が帰った瞬間、笑い声も一緒に消えてしまった。パソコンのファンの音だけが残って、また孤独と向き合う時間が始まる。人の声って、あんなにもあたたかいものだったのか。最近、そう思う機会が増えた。

頼られているふりをしていた

依頼が多いときは、「忙しくて仕方がない」と嘆いていた。でも本当は、忙しさに救われていたのかもしれない。誰かに必要とされるという実感が、生活の原動力になっていた。逆に依頼が少ないと、まるで自分の存在価値まで減ってしまったように感じる。そんなとき、必要以上に仕事を増やし、頼られているふりをして、自分を保っていたことに気づく。ふりじゃなく、本当に頼られる存在になれているのか。不安になる夜もある。

ありがとうの一言で持ちこたえていた

「ありがとうございます。助かりました」その一言が、どれほど自分を支えてくれていたのか。事務員のさりげないその言葉、依頼者からの短いメッセージ、それが積み重なって、何とかこの仕事を続けてこられた気がする。お金では測れない重みが、そこにはある。今夜も、誰にも会わないまま一日が終わりそうなとき、あの一言が頭の中でリフレインする。まだ、やれる気がする。それだけで、救われる夜もある。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓