動かぬ登記簿と動かぬ感情のはざまで
登記簿というのは本当に不動だ。何十年も変わらない地番、持ち主、用途。まるで時が止まっているかのようだ。でも最近、それ以上に動かないものがあると感じている。自分自身の心だ。45歳になり、司法書士として地方で事務所を構えて十数年。何かをしたい、どこかに行きたい、誰かに会いたい──そんな感情が、まるで封印されているかのように湧いてこない。登記簿を見つめながら、「これは俺の心の写し鏡か」と、思わず笑ってしまった日もある。
日々処理される書類に感情は含まれない
毎日毎日、決まった形式の申請書を処理して、法務局に提出する。委任状、登記原因証明情報、印鑑証明書──同じような書類がルーティンのように流れてくる。効率はいい。だけど心は置いてけぼりだ。仕事に追われているわけでもないのに、何かを感じる余裕もなく、ただこなしているだけ。昔は一つ一つの書類に対して「誰かの人生が動いている」と感じていた。でも今では、それが他人事のようになってしまった。
判を押すたびに空っぽになる
「はい、これで完了です」と押す実印。昔はそれが少し誇らしくて、「仕事をしたな」という実感もあった。でも今は違う。押印するたびに何かが抜け落ちるような、空っぽになっていく感じがある。誰のために、何のために、この仕事をしているのか。その問いが心の奥で静かに響いている。答えはまだ出ないけれど、確かに“何か”が動かずにいる。
手は動いても心はどこか置き去り
打鍵の音、コピー機の音、電話のコール音。それらに囲まれて、私は毎日「動いて」いる。でも、心はまるで動いていない。部屋の空気も自分の感情も、止まったまま。手続きは完璧でも、人間としてはどうなのか。そんな自問が、ふと浮かぶ。そしてすぐに見なかったことにして、次の登記へと進むのだ。
時間が過ぎても変わらない部屋の空気
この事務所も、築何十年になるのだろうか。壁紙も変えていない。机も椅子もそのまま。変わるのは季節と天気だけで、空気の重さは何年も変わらないような気さえする。あまりに変化がないと、逆に何かを変えることが億劫になってくる。まるでこの空間が私を動かないようにしているかのようだ。
季節だけが確実に巡っていく
春が来て、花粉症になって、夏が来て汗だくで登記簿を抱え、秋は少し切なくなって、冬は石油ストーブの灯油を買いに行く。それだけは確かに毎年繰り返されている。でも、自分の中身はそのままだ。花が咲いても、紅葉が色づいても、何も心が動かない。子どものころはもっとワクワクしていたはずなのに。
エアコンの設定温度だけが私の変化
せめてもの変化といえば、エアコンのリモコン操作くらい。春は24度、夏は27度、冬は22度。それくらいしか「自分で何かを決めた」と言えることがない。ランチのメニューさえも決まっている。きっと、感情が動く余白すら作れていないのだ。自分が不動産より動かないという言葉が、まんざら冗談でもなくなってきた。
一人事務所に響くキーボードの音
朝、事務所に入るとまずPCの電源を入れる。Windowsの起動画面を見るのも慣れたもの。事務員が出勤するまでの静寂は、もはや日課の一部だ。カタカタと響くキーボードの音だけが、仕事していることを証明してくれる。だけどその音に感情が乗ることはない。まるで無人の工場のように、ただ音が鳴っているだけ。
誰とも話さずに終わる午前中
書類作成とメール確認、電話対応。すべてが静かに、予定通りに進む。でも、誰とも声を交わさないまま午前中が終わることも珍しくない。話し相手がいないというより、話したいことすらない。昔はもっと雑談があった気がするけど、今はそれもない。情報交換も、感情のやりとりも、全部省略された効率のいい毎日だ。
お昼のコンビニ弁当だけが楽しみ
せめてもの楽しみは、事務員が「今日、これどうですか」と選んでくれるコンビニ弁当。でも、種類は限られているし、結局いつも似たようなものを食べてしまう。おにぎりセット、唐揚げ弁当、たまにパスタ。味は悪くない。むしろ、それなりに満足している自分が怖い。こんなもので満たされてしまう自分に、情けなさすら感じる。
でも、買うものはいつも同じ
毎日違うものを選んでいるつもりでも、結果として似たようなものばかり。選んでいるようで、選んでいないのかもしれない。これって、仕事や人生にも通じる気がする。無意識のうちに、同じ道ばかり選んでしまっているのだ。変化を怖れているのか、諦めているのか、それすら分からないまま今日も同じ弁当を開けている。
なぜ心がこんなに動かないのか
動かない心の正体を突き詰めてみると、それは“慣れ”かもしれない。仕事に慣れ、人との距離感に慣れ、感情を抑えることに慣れ。慣れることは悪いことではないけど、慣れすぎると鈍くなる。野球部時代、声を張り上げて全力で走っていた自分が今の自分を見たら、どう思うだろう。恥ずかしい、情けない、いや、驚きすらしないかもしれない。
感情をしまいすぎた仕事のクセ
司法書士という仕事は、感情を抑えて冷静に対応することが求められる。相手の怒りや不安に巻き込まれてはいけない。だから、いつの間にか“感じない”ことが身についた。感動も、怒りも、喜びも、なるべく顔に出さない。でもそれが積み重なると、今度は自分自身が何も感じられなくなってしまう。防御が過剰になって、麻痺してしまったようだ。
元野球部の声の大きさはどこへやら
昔は誰よりも大きな声で「よろしくお願いします!」と叫んでいた。腹の底から出していた声が、今では「お世話になっております」と抑揚もない言葉に変わってしまった。職業柄、仕方ないとは思いつつも、あの頃の情熱やエネルギーが懐かしい。今の自分に「声を出せ!」と怒鳴ってくれる人がいたら、少しは変わるのだろうか。
叫ぶ場所も相手もないまま
叫びたい。大声で何かをぶつけたい。でも、それを受け止めてくれる相手がいない。事務所で大声を出せば、ただの怪しい人だ。公園で叫ぶ勇気もない。だから、結局また心の奥に押し込んでしまう。「こんなもんだよな」と自分に言い聞かせながら。動かない心は、もしかすると、叫ぶことすら諦めた結果なのかもしれない。