目の前の封筒だけが仕事のすべてに見える日
朝イチでポストに届いた一通の封筒。それを開けて内容を確認し、登記情報を見比べ、依頼主に電話し、必要書類を確認していたら、もう夕方。誰かと話したわけでもなく、外に出たわけでもなく、気づけば一日が終わっている。司法書士として独立してから何年も経つが、こういう日が増えてきた。昔はひとつの案件に熱中していたのに、今では書類の“存在感”だけに振り回されている気がする。
書類仕事に始まり書類仕事に終わる
封筒を開けて書類を確認し、必要な対応を取る。その繰り返しが日常だ。電話が鳴ればそれに対応し、FAXが届けば読み取り、謄本を取り寄せては印鑑証明の期限を確認する。単純作業のようでいて、すべてがミスの許されない作業ばかり。どんなに手慣れていても、どこかで集中が切れると痛い目にあう。だから気が抜けない。なのに、仕事を終えたあと「今日は何をしたんだっけ」と思うことも多い。何も成し遂げた感じがしない日が続くのだ。
業務の8割が「待ち」と「確認」
実は司法書士の仕事の大部分は「確認」と「待機」に費やされる。提出書類の確認、依頼者からの返答待ち、法務局からの補正待ち…。実務的な作業そのものは数時間で終わることもあるが、その前後の段取りに膨大な時間がかかる。例えば登記をひとつ終わらせるにも、何度もメールや電話でやり取りし、関係書類の整合性をとる必要がある。「書くだけならすぐ終わる」と言われがちだが、むしろその前後が本番なのだ。
実働時間より精神消耗の方がでかい
夕方、疲れきった体で机に突っ伏しながら、「今日は何時間働いたんだ?」と時計を見る。でも、実働は大して長くない気もする。けれど、精神的にはすっかり燃え尽きているのだ。確認作業のプレッシャーと、誰にも見えない緊張感の積み重ねが、確実に心を削っている。封筒ひとつのために一日を費やす。それが日常になると、達成感ではなく徒労感だけが残ってしまうのが怖い。
封筒ひとつでも手を抜けない職業病
どんなに小さな案件でも、いや、小さな案件こそ慎重に進めねばならない。特に相続や会社の設立など、人の人生や金銭が絡む書類は、たった一文字の違いが大問題になる。だからこそ、封筒ひとつの中身に神経をすり減らす。しかもそれは、他人にはわからない。依頼者からすれば「たったこれだけの書類でこんなに時間がかかるの?」と思われる。でも、そこに命をかけている感覚があるのだ。
ミスは許されないからこその緊張感
司法書士という仕事は、派手さはまったくない。そのかわり、責任だけはずっしりとある。何気なく書いた一文が、あとで登記官から「補正です」と戻されるだけで、一日が台無しになることもある。昔、印鑑証明の日付を一桁見間違えて補正になったことがある。たったそれだけで、依頼者にも事務員にも迷惑をかけ、自分のミスを何度も思い返した。あれ以来、書類を見るたびに指先が汗ばむようになった。
確認三回でも心配になるのはなぜか
確認は三度しているはずなのに、「本当にこれで大丈夫か?」と心配になる。書類を提出してからも気になって、夜中に目が覚めて確認し直すことすらある。特に、急ぎの案件や大口の案件ほど神経がすり減る。「一通の封筒」と言っても、その重みは何十キロにも感じることがある。しかも、依頼者にはその重さは伝わらない。それが仕事だと言われればそれまでだが、やはり気持ちは削られていく。
事務員に聞かれても即答できない理由
事務員に「この件、どう処理しますか?」と聞かれても、即答できないことがある。もちろん手順はわかっている。でも、書類全体の流れや背景、依頼者の意図を踏まえると、一歩踏みとどまって考えたくなる。だから「ちょっと待って」と言って、また書類に目を落とす。そうするとまた時間が過ぎていく。結局、自分の中で“納得”しないと次に進めない。そういうこだわりが、この仕事をさらに長引かせているのかもしれない。
それでも明日もまた封筒を手に取る理由
文句ばかり言っているようだが、それでも翌朝にはまた机に向かっている。なんだかんだ言って、この仕事を嫌いにはなれない。封筒の中に誰かの人生が詰まっているとき、それを任されることには責任以上の「信頼」がある。その信頼を裏切りたくないから、また今日も丁寧に封筒を開ける。たとえそれで一日が終わってしまっても、自分にしかできないことがあるなら、やっぱりやるしかないと思ってしまうのだ。