朝の机に向かうたびに感じる空虚感
パソコンを立ち上げる手はいつもと同じ。でも心のどこかで「今日は何か起きるかな」と期待してしまう。電話は鳴らない。メールも来ない。登記のスケジュールも詰まっているわけじゃない。地方の司法書士事務所。特別な事件も大きな依頼もそう頻繁にあるわけじゃない。開業してもう十年以上経つのに、いまだに朝の静けさに慣れない自分がいる。ただの「暇」とは少し違う。誰からも頼られていないという感覚。それが静かに、でも確実に心を削っていく。
「今日もまた誰の役にも立てないかもしれない」
一日の始まりに浮かぶこの思い。誰かの役に立つこと、それがこの仕事の醍醐味だったはずなのに。最近は、「先生にお願いしてよかった」と言われる機会も減った。日常業務はこなしているし、登記の書類もミスなく仕上げている。でも、感謝されることはめっきり減った。昔はもっと「頼られてる感」があった。今はただ作業をこなしているだけ。それでも「仕事してるふり」はしているつもりだが、心のどこかが空っぽになっているのを感じてしまう。
依頼の電話が鳴らない日々が続いたあの頃
開業してすぐの頃、最初の数ヶ月は電話がまったく鳴らなかった。「番号間違えてませんよね?」なんて事務員に聞かれたときは笑えなかった。机に肘をつきながら、鳴らない受話器を見つめる毎日。新人時代のあの焦燥感と今の虚無感、どちらが辛いかと聞かれたら…どっちも辛い。今は仕事はあるけど、「あの先生じゃなきゃダメだ」という気配はない。ただの「選択肢の一つ」でしかないことが、一番堪える。
実家の親からの「最近どう?」が一番こたえる
年に一度の帰省で母親が聞いてくる。「最近どう?忙しい?」と。悪気はない。むしろ心配してくれてる。でも「まあ、ぼちぼちかな」と返すしかない自分が情けない。親に心配かけたくない、でも見栄を張るほどの業績もない。40代半ば、独身、地方在住、モテない、そして頼られてない司法書士。野球部時代、エースだった俺が、今はただの「静かな事務所の管理人」になっている。そんな現実に、時々むせ返りそうになる。
「頼られること」がなぜこんなに欲しいのか
別に有名になりたいわけじゃないし、報酬を倍にしてほしいわけでもない。ただ、「あの先生なら安心」と言われたい。信頼されたい。それだけ。人は誰かの役に立っていると感じることで、自分の存在価値を実感するんだと思う。依頼の大小じゃない。その人にとって「自分じゃなきゃ」という瞬間があるかどうか。その機会がどんどん減っていくことに、心がついていけていないのかもしれない。
信頼される人とされない人の間にあるもの
同じような手続きをしても、なぜか信頼を集める人と、そうでない人がいる。自分に足りないのは何なのか。人柄?実績?話し方?わからない。でも一つだけ確信しているのは、「自分には余裕がない」ということ。焦りや不安は、微妙な表情や言葉に出てしまう。信頼されるには、まず落ち着きが必要なのかもしれない。仕事に追われながらも、にこやかに「大丈夫ですよ」と言えるような、あの人のように。
いつのまにか自信の根っこが腐っていく
かつて持っていた自信。それは実績でも、知識でもなく「何とかなるさ」という若さの勢いだった。今は慎重になりすぎて、行動を起こす前に疲れてしまう。新しいことに挑戦する気力もなくなり、目の前の仕事をこなすだけで精一杯。そんな日々が続けば続くほど、自信の根っこが腐っていく感覚がある。「自分ならできる」という感覚を取り戻すには、どこかで一度、無理をしてでも踏み出さなければいけないのだろう。
人に必要とされたいだけなのに
大きな夢があるわけでもない。名誉も欲しくない。ただ、人に必要とされたいだけなのに、それがこんなにも難しいなんて。仕事が来る=頼られてる、と単純に言えないことはわかってる。でも、感謝の言葉や笑顔がない日々に、「意味」を見いだすのは難しい。司法書士という仕事は「ありがとう」が少ない仕事かもしれない。だからこそ、たまに聞けるその一言が、こんなにも心に染みるのだろう。
事務員との温度差に戸惑う午後
事務員の彼女は淡々と仕事をこなす。指示すれば的確に動いてくれる。でも、そこに感情の交流は少ない。「この人にとって、僕はただの上司なんだな」と感じる瞬間がある。悪い子じゃない。むしろ真面目だ。でもこちらが抱える孤独感や焦燥感には無関心だ。もちろんそれを求めるのはお門違い。でも午後の静かな時間、ふとした表情に「何も伝わってないな」と実感すると、余計に寂しさが募る。
「もう終わりました」その言葉が刺さる
「先生、これもう終わりました」その一言がなぜか冷たく聞こえる日がある。別に悪気があるわけじゃない。むしろ丁寧で仕事熱心だ。でも「終わりました」という言葉が、「あなたの出番はもうないですよ」と言われているような気がしてしまう。たぶん、こちらの心がすり減っているから、普通の言葉にも過敏になっているのだろう。余裕がないとはこういうことか、と我ながら思う。
昔は頼られる側だった気がする
高校時代、野球部ではキャプテンだった。チームをまとめ、仲間を引っ張り、勝利を目指して汗を流した。あの頃は、後輩からも監督からも頼られていたと思う。どうしてあんなに堂々としていられたのか。今の自分には、その影もない。あの頃の自信はどこへ行ってしまったんだろう。大人になって、自分の価値を疑うようになるなんて、あの時の自分に言ったら驚くだろうな。
元野球部の主将としての記憶と今のギャップ
ユニフォーム姿で声を張り上げていた自分。後輩に指示を出し、練習後は率先してグラウンド整備をしていた。「お前がいると安心する」と言われたこともある。なのに今、司法書士としての自分にそれがない。人に頼られない現実と、かつての自分とのギャップに、時折、無性に虚しくなる。でもあの頃の記憶があるから、まだなんとか踏ん張れている気もする。あの頃の自分を、少しでも取り戻したい。
誰にも言えない「寂しい」という気持ち
この年齢になると、「寂しい」と口に出すことすら恥ずかしくなる。周囲は家庭を持ち、子どもと過ごす週末を楽しんでいる。自分はひとり、コンビニ弁当をつつきながら書類の確認。寂しさを紛らわす相手も、趣味も見つからず、ただ時間が過ぎていく。誰かと比べるつもりはない。でも、誰にも頼られない状態で、一人の時間が延々と続くのは、やっぱり辛い。
独身男性司法書士の孤独と向き合う夜
夜、書類を片付けて帰宅したあと、テレビの音だけが部屋に響く。スマホには通知もない。飲みに誘ってくれる友人もいない。たまにSNSを見ると、幸せそうな家族写真が目に入る。「こっちは一人で仕事してるんだぞ」と、思わずスマホを伏せてしまう。独身であることが悪いわけじゃない。でも、誰かの「大切な人」でありたいという願いが、消えることはない。
一人暮らしの部屋がただ静かすぎる
帰宅後の部屋のドアを開けたときの、あの静けさ。ホッとするどころか、逆に不安になる。何も話す相手がいない。今日の出来事を共有する人がいない。せめてペットでもいれば、少しは違うのだろうか。そんなことを考えて、YouTubeで猫の動画を延々と見てしまう。寂しさが心に根を張っていくのが、手に取るようにわかる。
ペットでも飼おうかと本気で考えた
最近、事務所の隅に「里親募集中」のチラシを貼ってみた。猫でも犬でもいい。誰かを迎え入れたい気持ちが強くなっている。毎日無言で過ごすのは限界だ。せめて、玄関を開けたときに尻尾を振ってくれる相手がいれば、心が救われる気がする。でも、もし出張が入ったらどうしよう。ちゃんと世話できるだろうか。そんな現実的な不安が、決断を先延ばしにしている。
だからこそ小さな依頼が嬉しい
「相続登記お願いできますか?」たったそれだけの依頼が、今は本当に嬉しい。手間がかかっても、報酬が少なくても、「私を選んでくれた」という事実が支えになる。誰にも頼られない日々の中で、その一件がどれだけの意味を持つか。書類を一枚仕上げるたびに、「自分にもできることがある」と実感できる。それだけで、また明日も机に向かえる。
「先生にお願いしてよかった」その一言が支え
登記完了後に言われた一言。「先生にお願いしてよかったです」それだけで、何日も心が温かくなる。報酬の金額よりも、何よりも、その言葉が欲しかったんだと気づく。司法書士という仕事は、書類の向こうに人の人生がある。そのことを、つい忘れてしまいそうになる日々。でも、誰かの人生の一部を支えていると実感できた時、この仕事を続けていてよかったと思える。
これから頼られる存在になるために
頼られたいなら、まず自分自身を信じることから始めなければならない。他人に必要とされる前に、自分が「自分に価値がある」と思えること。それは難しいけど、少しずつでもやっていくしかない。年齢を重ねても、自信は育て直せると信じたい。今日一日、誰かに必要とされなくても、自分で自分に「よくやった」と言えるように。
自己肯定感は他人からの評価で育つものじゃない
これまでずっと、他人からの評価で自分を測ってきた。でもそれでは心が持たない。誰にも頼られない日は、自分で自分を認めるしかない。小さな達成感を積み重ねて、「自分はこの場所にいていい」と思えるようになりたい。完璧じゃなくていい。誰かに必要とされる日も、されない日も、自分を大切にすることができれば、それだけで前に進める。
まずは自分が自分を信じることから
信頼は、他人から与えられるものではなく、自分の中から育てていくもの。まずは、「今の自分でも十分だ」と思えることがスタートだ。今日一日を丁寧に生きる。誰かに必要とされるために、まずは自分で自分を必要とする。その積み重ねが、いつか誰かからの信頼につながるのだと信じて。