一人って気楽ですねの破壊力
「一人って気楽ですね」と言われたとき、思わず苦笑いするしかありませんでした。たしかに、自分で選んだ道です。誰に気を使うこともなく、好きな時間に仕事をして、好きなものを食べて、好きなタイミングで寝る。けれど、その言葉がなぜか心の奥深くに引っかかって離れない夜があります。気楽って、本当にいいことなんでしょうか。気楽だからこそ、誰にも頼れない不安や寂しさが積もっていく感覚。あの一言は、もしかしたら図星だったのかもしれません。
その一言が妙に心に引っかかった理由
友人と久しぶりに会った夜、居酒屋のカウンターで彼が言った「お前は一人で気楽でいいなあ」の言葉。お酒のせいか冗談まじりだったけれど、なぜだかその瞬間だけ時間が止まったような気がしました。こちらは仕事に追われて一日が終わる日々。それを「気楽」と言われてしまうと、なんだか全否定されたような気にもなってしまう。友人に悪気はない。ただ、その何気ない言葉に、普段押し込めていた感情がチクリと顔を出しただけだったのかもしれません。
たしかに自由だし誰にも邪魔されない
自由に生きられるというのは、大きな魅力です。朝は好きな時間に起きて、昼休憩も自由。自営業である司法書士という立場上、自分の裁量で動ける範囲も多い。事務員とは最低限の会話だけで済み、集中できる環境があるのは間違いありません。ただ、それが続くと、ふとした瞬間に孤独を感じることもあるのです。自由であることと、誰にも干渉されないことは似て非なるもの。時にそれは、自分だけの世界に閉じこもる原因にもなるのです。
でも本当は誰かと一緒に笑いたかっただけ
あの一言が胸に残ったのは、きっとどこかで「一人は寂しい」と感じていたからだと思います。たとえばテレビでバラエティ番組を見て笑っていても、それを誰かと共有できない寂しさ。昔、野球部でベンチに座っていたときのように、仲間と一緒に同じ瞬間を笑い合えた日々が懐かしいのです。笑い声が混ざり合うあの感じ。今では誰にも見せることなく、部屋で小さく笑うだけ。本当は、ただ誰かと同じ時間を過ごしたいだけだったのかもしれません。
気楽って言葉の裏側にある感情
「気楽ですね」と言われるとき、そこには羨望のような、あるいは少しの皮肉も混じっていることがあります。でも、その言葉の裏にあるものに気づくのは、実際に一人で過ごしている人間だけかもしれません。誰にも気を使わない生活というのは、同時に誰にも気にされない生活でもあるのです。表面的には自由でも、内側には孤独や虚しさがこびりついている。そんな感情を抱えていることを、気楽という言葉が突きつけてくるのです。
気楽=孤独と気づいた瞬間
「気楽ですね」と言われて、最初は「まあ、そうだね」と笑って受け流します。でも、夜に帰宅して誰もいない部屋で靴を脱いだ瞬間、なぜだか重たいものが胸に落ちてきます。「気楽」って、つまりは孤独の別名なんじゃないか。誰にも文句を言われないかわりに、誰にも助けを求められない。その現実を一人で抱え込むのが、”気楽”という状態なのだと気づいてしまうのです。
忙しさに逃げていたのかもしれない
日々の仕事の忙しさは、ある意味ありがたい逃げ道でした。登記の処理、相談の対応、書類の山を片付けているときは、孤独を感じる暇もない。でも、仕事が落ち着いたときにふと現れる空白。そこに入り込んでくるのが、「自分はこのままでいいのか?」という問いでした。仕事に打ち込むことで、寂しさを忘れようとしていたのかもしれない。気づかないふりをしていた感情が、あの一言で剥がれ落ちていったのです。
司法書士という仕事の孤独
この仕事は、他人の人生に関わる場面が多く、それだけに責任も重い。その分、気軽に他人に相談できないという一面があります。登記や遺産相続といったデリケートな分野を扱う中で、判断を迫られる場面も少なくありません。そんなとき、誰かに「これで合ってるよ」と言ってもらえれば、どれだけ心強いかと感じるのです。しかし、自分が最終判断者である以上、その孤独は仕事に付きまとう宿命のようなものです。
誰にも相談できない決断が日常
たとえば、登記申請を一つ出すだけでも、前提にある法的判断や書類の整合性を何度も検討します。そのプロセスで迷うこともありますが、最終的に判断するのは自分だけ。事務員には任せられないし、周囲に同業者がいるわけでもない。こういう孤独な判断の連続が、精神的な疲れとなって蓄積されていきます。間違っていないか不安を抱えながら、それでも期限は迫る。そんな日々に耐えている自分に、「気楽ですね」と言われると、少しだけ虚しくなるのです。
正解がないのが日々のプレッシャー
司法書士の仕事には、明確な正解がない場面が多々あります。条文を読んでも解釈が分かれる。判例も複数あって決め手に欠ける。そんな中で、クライアントの利益を最大限に考え、法律と現実の折り合いを探っていく日々。その中での「決断」は、誰にも相談できず、すべて自己責任です。正解がない中で迷い続けることの苦しさ。それが積もっていくと、ふと「誰かとこの迷いを共有できたら」と思ってしまうのです。
共に背負ってくれる人がいればと思う
たとえば、元野球部時代ならば、エラーした後に声をかけてくれる仲間がいました。「ドンマイ」「次は任せろ」と言ってくれるだけで救われた。今は、自分で決めて、自分で背負うしかない。そんな状況が日常です。もし同じ目線で悩みを語り合える誰かが隣にいたら、どれだけ救われるだろう。結婚をしていたら、事務所のことを家で話すこともできたのかもしれません。そんな想像をしてしまう自分が、少し哀しくなります。