まだ寒い事務所の空気
暦の上では春だというのに、事務所の中にはまだ冬が居座っているような気がしてならない。地方の片隅にあるこの司法書士事務所には、派手な来客もなく、目立つ業績もない。朝出勤して、パソコンのスイッチを入れる時の気分は、まるでストーブに火を点けるような、無理やり気持ちを立ち上げる作業だ。若い頃、野球部で泥まみれになっていた頃には想像もしなかった毎日が、ここにある。
朝のドアを開ける音が少し重い
事務所の鉄のドアは、冬の間に少し軋むようになった。その音が毎朝、体の奥にずしんと響く。たった一人の事務員さんも、寒さに肩をすくめながら「おはようございます」と挨拶をくれる。返事はするけど、気持ちはまだ目覚めていないことが多い。寒い空気の中、書類の山とパソコンの画面に囲まれて、今日もまた始まるのかと思う。
湿った書類と沈黙の時間
エアコンの温風が当たらない棚の奥の書類は、どこかしっとりしていて、それが事務所の空気を象徴しているように感じる。何も話さない時間が長い日もある。会話のない静けさは、落ち着くよりも、孤独を強調する。独身で、誰かと夕食を囲む予定もない自分には、この沈黙は思った以上にこたえる。
暖房の温もりより恋しい人の声
暖房を強めにしても、心までは温まらない。ラジオから流れる声に少し癒されるものの、誰かと雑談できる時間が何より恋しい。誰かが「最近どうですか?」と気軽に話しかけてくれたら、それだけで春の気配を感じられるのに。けれど、それを口に出すのは照れくさいし、甘えたくもない。
誰かが来る気配のしない午前中
午前中の来客はほとんどない。電話も鳴らない日もある。そんな時は、自分の存在まで薄れていくような錯覚に陥る。動いているのは、パソコンの中のカーソルと、お湯を沸かす電気ポットくらい。時折、自分は本当に「必要とされているのか」と考えてしまう。人の出入りのない事務所は、時間の流れすら鈍く感じる。
春を感じることはあるのか
そんな空気の中でも、時おりふっと春の気配を感じることがある。日差しが柔らかくなったとか、外から聞こえる子どもの声が増えたとか、ごくごく小さな変化だ。だけど、それが心に残る。冬が終わる予感が、ささやかな希望に変わる瞬間が、確かにあるのだ。
窓際の光が少しだけ変わった
毎朝、ブラインドを開けるときに差し込む光が、少し明るくなったように感じる。太陽の角度が変わっただけかもしれない。でも、それだけで、今日という一日が少しマシに思えるのだから不思議だ。光は何も言わない。でも、確かに「大丈夫」と背中を押してくれるような力がある。
桜の開花よりも気になる支払い予定日
世間が「開花予想」と騒いでいる頃、こちらは「入金予定日」に神経をすり減らしている。花より通帳。美しさより現実が優先されるこの職業に、春のロマンは似合わないのかもしれない。けれど、それでも桜は咲く。だから、心のどこかで、自分の中にも何かが芽吹くのを待っている。
事務員さんの小さな笑い声が救いになる
そんな中で一番の救いは、事務員さんの笑い声だ。自分のつまらない冗談にも笑ってくれるその声に、どれだけ助けられているか分からない。人のぬくもりとは、こういうさりげないところにあるんだと気づく。春が来るとしたら、きっとそこから始まるんだと思う。
咲かない花に水をやり続ける理由
やりがいなんて、最近はあまり感じなくなった。それでもこの仕事を辞めない理由があるとすれば、それは自分でも気づかないところで誰かの役に立っているかもしれないという、かすかな期待だ。咲かない花に水をやる毎日。それでも、やめられない。
この仕事を始めた頃の気持ちはもう忘れた
開業したての頃、やる気に満ちていたはずの自分は、今どこへ行ったのだろう。今の自分は、疲れていて、どこか諦めていて、でも仕事だけはきっちりやる。きっと、それが年齢を重ねるということなのだろう。情熱が残っていれば、それだけで奇跡だ。
それでも案件は目の前にある
感情とは関係なく、仕事はやってくる。登記、相続、債務整理…書類の重みはいつも現実だ。感情を置き去りにしても、とにかく手を動かすしかない。やらなければ誰もやってくれない。それが個人事務所の現実であり、責任の重さでもある。
やめたいと思った数だけ慣れてしまった
何度もやめたいと思った。けれど、続けている。気づけばその回数分だけ、要領も覚え、手際も良くなった。逃げ出すことより、耐えることに慣れてしまった自分がいる。これは誇れることなのか、それとも諦めの産物なのか、自分でもよくわからない。
咲いたように見える花の正体
たまに「先生、助かりました」と言われることがある。その瞬間、自分の中に花が咲いたような気がする。けれど、それはあくまで一時のことだ。咲いたと思ったら、すぐにしぼむ。その繰り返しでも、やっぱりうれしいのだから不思議だ。
表彰も感謝もないけれど
この仕事に華やかなスポットライトはない。SNSでバズることもないし、業界内での評価が上がったところで生活が劇的に変わるわけでもない。けれど、地味な日常の中で、自分なりの意味を見つけようとしている。それだけでも、生きている意味はあるんじゃないかと思いたい。
電話越しの「助かりました」の重み
先日、遠方の高齢の依頼者から「本当にありがとうございました」と言われた。電話越しのその一言が、妙に胸に染みた。顔も知らない相手からの感謝。それがこんなに重いものだとは、自分でも驚いた。その一言のために、また一日頑張ってしまう。
それでも心が少しだけ動く瞬間
何も変わらない日々の中でも、ふとした拍子に心が動く瞬間がある。それは、誰かの一言だったり、春の光だったり、自分のささいな気づきだったりする。その小さな揺れが、次の日を生きる力になる。大げさだけど、今の自分にはそれがすべてかもしれない。
春は自分で連れてくるものかもしれない
誰かが春を運んでくるのを待っていても、何も変わらないのかもしれない。自分で小さな花を咲かせていくしかない。そう気づくことが、この仕事を続ける理由になっていくのかもしれない。もしかすると、春は「来る」ものではなく「育てる」ものなのかもしれない。
小さな変化を拾い集める
日々の小さな変化に気づけるようになると、少しだけ世界が広がる。たとえば、新しいペンを使ってみる、コーヒーの銘柄を変えてみる、それだけで気分が変わる。そうした些細な積み重ねが、閉塞した空気の中に風を通してくれる。
書類の山の中にも芽吹きはある
業務で扱う書類は山のようにあるけれど、その一つひとつに人の人生がある。そのことに気づくと、少しだけ見え方が変わる。自分は誰かの人生の節目に関わっているんだと思えると、机の上にも意味が生まれる。それが春の始まりなのかもしれない。
誰かに春を届ける側になれたら
いつか、自分が誰かにとっての「春」になれたらいい。寒い顔で訪れた依頼者が、帰りには少しだけ笑ってくれる。そんな瞬間の積み重ねが、この仕事の本質なのかもしれない。自分が咲けなくても、誰かに花を咲かせてもらえたら。それもまた、春のかたちだ。