話すことが少なくなった生活の始まり
司法書士として事務所を構えて早十数年。最初は日々の相談や手続きで人と話すのが当たり前だったはずなのに、気づけば声を出すことさえ減っている。誰かと話すのは、仕事のやり取りが中心で、それ以外の会話がどんどん減っていく。自宅ではテレビが唯一の話し相手。会話のない静けさに慣れてしまったのは、いつからだっただろう。気づいた頃には「話さない日」が日常になっていた。
独り暮らしの気楽さと寂しさの境界線
独身のまま45歳になり、気楽なひとり暮らしには慣れたつもりだった。誰にも気を遣わず、好きな時間に寝て、好きなものを食べる。でも、夜にふと目が覚めたとき、しんと静まり返った部屋に「寂しいな」と思うことがある。学生のころは、誰かと一緒にいるのが当たり前だったのに、今は「ひとりが普通」。それが少しずつ、会話のないことへの耐性をつけていったような気がする。
声を出さないことに慣れていく感覚
朝起きてから寝るまで、まったく声を出さない日がある。喉が乾いているのか、声がかすれることさえ気づかない。昔は電話一本で近況報告をしあっていた友人も、今ではLINEのスタンプ一個で済んでしまう。会話そのものが減っていくと、喉より先に気持ちが錆びていく。声に出すことは、心の潤滑油だったんだなと、久しぶりに誰かと話した帰り道にふと実感する。
おはようと言う相手がいない朝の重さ
朝、玄関を出るとき、つい「おはよう」と言いたくなる衝動がある。だが、そこに言う相手はいない。マンションの住人とも顔を合わせることは少なくなり、挨拶の機会もどんどん減っていった。事務所についても、事務員はすでに机に向かっていて、こちらも「おはようございます」と一応言うけれど、それが形式だけの言葉に感じて、虚しくなるときがある。言葉が空振りする感覚。これが続くと、やがて「言わなくてもいいか」に変わってしまう。
職場でも最低限の会話だけになって
司法書士の仕事は、案外淡々としていて、人と深く会話することは少ない。依頼者とのやり取りも、必要な情報を交換すれば完了することが多い。雑談が入り込む余地は少なく、こちらも無意識にその「効率の良さ」に慣れてしまっていた。そんな中、ふと「今日は誰とも話してない」と気づくと、妙に冷たい風が胸を通り抜ける。会話がないことが仕事のスタイルになってしまった現実が、なんだか味気ない。
事務員とのやり取りは業務連絡がすべて
事務所にいる事務員とは、最低限の業務連絡だけで一日が終わることが珍しくない。「これ、法務局出しておいてください」「はい」それで会話終了。昔なら、「最近どう?」なんて話しかける余裕もあった。でも、忙しさにかまけて、そういう一言すら省略されるようになった。事務員も悪気はなく、ただ必要なことをこなしているだけ。でも、そんな事務所にふとしたときに漂う「無音」が、妙に堪える日がある。
雑談が消えると空気も変わる
雑談は、職場の潤滑油だと誰かが言っていた。その通りだと思う。以前、アルバイトで入っていた若い人が、昼休みに「コンビニで変な人見ましたよ」なんて話してくれたときは、思わず笑ってしまった。その一言で、空気がやわらかくなり、仕事もほんの少しだけ軽く感じた。だけど、その人が辞めてから、また無言の時間が戻ってきた。静かなのは悪くないけど、やっぱり少し寂しい。
昔はもう少し笑ってた気がする
いつからだろう、笑うことが減ったなと思うようになったのは。テレビを観ても、SNSを見ても、笑うというより「ふーん」とスルーしてしまうことが増えた。誰かと話す中で生まれる笑いが、どれほど貴重だったかを今さらながら実感する。笑いって、ひとりでは生まれにくい。誰かの一言に反応して、つい笑ってしまう。その瞬間がどれほど心を軽くしていたのか、今はもう遠い記憶だ。
休日の静けさが心に響く
仕事のない休日は、逆に「音のなさ」が際立つ。平日はバタバタしていて気づかないけれど、休みの日は静寂がずっとつきまとう。朝起きて、コーヒーを入れて、テレビをつける。でも話し相手はいないし、予定もない。話す機会がないまま、日が暮れていく。以前は「休みはありがたい」と思っていたのに、最近は「早く月曜になってくれ」と思うようになった。それが悲しいような、情けないような。
誰にも連絡しない週末が増えて
昔の友人に連絡を取るのも、なんだか面倒になってしまった。どうせ忙しいだろうとか、今さら何を話せばいいのか、とか。自分から壁を作っているのは分かっている。でも、壁を超える元気もない。気づけば、LINEのやり取りもスタンプで終わり、既読スルーが常態化。「何してる?」の一言を送る勇気さえ、だんだん失っていく。連絡をしない週末は、誰ともつながらないまま終わる。
会話アプリの通知も鳴らない現実
スマホに入っているメッセージアプリ。以前は、仕事や友人とのやり取りで常に通知が鳴っていた。けれど、最近は通知音を聞くことすら減った。無音が当たり前になると、逆に通知が鳴るとびっくりするほどだ。通知が鳴らない日々は、誰にも求められていない気がしてしまう。こちらから発信しない限り、会話は生まれない。そのことに気づいていても、指が動かない。
久しぶりに話したなと思う瞬間
たまに外回りで昔の知り合いに会ったとき、「久しぶり!」と声をかけられて驚く自分がいる。「ああ、俺、最近全然誰とも話してなかったんだな」とその瞬間に気づく。会話ってこんなに体温があったっけ、と。そう感じた日は、帰ってからもなんとなく気分が違う。だからこそ、話す機会を自分で作らなきゃと頭では分かっているのに、次の日にはまた黙ったままの自分に戻っている。
声をかけることの勇気と面倒くささ
声をかけるのって、意外とエネルギーがいる。「元気?」の一言すら、今の自分にはハードルが高い。話しかけても迷惑かもしれない、そう思って口を閉ざしてしまう。面倒くささと、ほんの少しの恐れ。それが積み重なって、今の「会話のない日常」が出来上がったのだと思う。
沈黙の時間に慣れてしまった自分を見つめて
最近では、沈黙が不自然に感じなくなってきた。誰とも話さないまま一日が終わっても、「まあ、そんなもんか」と思ってしまう。だけど、それって本当にいいのか?人との関わりを避けて、黙って生きるだけの毎日。それが今後も続くのかと想像すると、少し怖くなる。今この沈黙の先に、なにか取り戻せるものがあるなら。せめて少しずつでも、声を出す習慣だけは忘れずにいたい。