登記簿は愛を語らない

登記簿は愛を語らない

登記簿の片隅に残された名義

雨の降る火曜日の午後だった。ぬれた傘をたたみながら、ひとりの中年女性が事務所に飛び込んできた。涙で濡れた目元には、疲れと焦りが浮かんでいた。

「この名義、私のじゃないんです……でも、彼が言ったんです。『君のために家を買った』って」 声は震えていた。机の上に置かれた登記簿の写しを、私はそっと指先でめくった。

その名義人欄にあったのは、見知らぬ名前。どうやら事は一筋縄ではいかないようだった。

相談者は泣きながらやってきた

「彼とは十五年、一緒に暮らしてきました。でも、籍は入れてなくて……」 女は語る。彼女は“内縁の妻”だった。しかし、法の世界ではそれがどこまで認められるかは曖昧だ。

亡くなった“彼”の遺言もない。家も口約束だった。あるのは、彼の言葉と、彼女の記憶だけ。

やれやれ、、、これはまた、書類のない世界の話か。

愛の証として残された一通の契約書

「これだけはあるんです」 そう言って彼女が差し出したのは、手書きの覚書だった。 “将来、財産は全て彼女に譲る”と書かれていたが、日付も署名も曖昧だ。

しかも、印鑑はシャチハタ。証拠としては限りなく弱い。だが、何か引っかかった。文字に妙な癖があったのだ。

「この署名、どこかで見たような……」私は既視感の理由を探っていた。

サトウさんの冷静な観察眼

「それ、多分同じ人の字じゃないです」 後ろから静かにサトウさんの声がした。彼女はすでに、他の資料を比較し始めていた。

「でも、この筆跡、二種類あるんですよ。最初の数行と最後の一文だけ違う。わざと書き換えられてる可能性も」 彼女の冷徹な目が、真実に迫っていた。

正直、俺より優秀だ。まあ、いつものことだが。

私情と事実を切り分ける塩対応

「かわいそう、で判断したらだめです。司法書士は書類を見る職業ですから」 サトウさんは言った。まるで某少年探偵団のメガネの少年のように、冷静沈着に。

だがその厳しさの裏には、確かに依頼者を守ろうとする意思があった。 だからこそ、俺は彼女の言葉を無視できなかった。

「一度、法務局へ行って確認してみるか……」と私は立ち上がった。

公正証書の矛盾

法務局で閲覧した過去の登記情報の中に、不審な記録が見つかった。亡くなった“彼”が、生前に作成した公正証書が二通。 日付は同じ。だが内容が異なっていた。

一通は財産の全てを妹に、もう一通は彼女に、と記されていたのだ。 そして、署名の筆跡が決定的に違った。

「同じ日に別の場所で作成された?それとも……」 私は首を傾げた。

同日に二通の証明書が作られていた

「これ、明らかに片方は偽物です」 サトウさんが指差したのは、妹に譲ると記された公正証書の署名部分だった。 「この筆跡、彼のとは全然違う」

確かに。どこかで見たことがある。いや、ついさっきも見た。

彼女が持ってきた覚書。それと酷似していたのだ。

署名の癖と筆跡鑑定の落とし穴

「まさか……覚書を書き換えたのは妹の方か」 遺産を手に入れるために、偽造の公正証書を用意し、兄の死後に登記を変更した。 その可能性が一気に浮かび上がった。

愛を信じていた依頼人の涙は、単なる感情論ではなかった。 そこに真実があった。

「登記簿に愛は書かれてないけど、嘘もちゃんと書かれるんだな……」 私は苦笑した。

法務局が語った最後の証言

登記変更を担当した職員の話によると、「妹さん、ずいぶん急いでた印象がありましたね」とのこと。 「公正証書のコピーも最初から用意してあったようでした」

完全に仕組まれていた。 残された彼女は知らぬ間に、すべてを奪われかけていたのだ。

やれやれ、、、また面倒なことになってきた。

職員が見たほんの小さな違和感

「そういえば、そのときの印鑑、ちょっと擦れてましたね。急いで押した感じでした」 この証言が決定打となった。

偽造証書による登記変更の取り消し手続きが可能となり、彼女の財産権もようやく認められる運びとなった。

事件は、静かに幕を閉じた。

愛の証明は書類には残らない

すべてが終わったあと、彼女はぽつりと呟いた。 「彼、本当に私のこと……好きだったのかな」 私は答えなかった。だが、確かに、そう感じた。

たとえ登記簿に名がなくても、彼が残そうとしたものは、彼女への優しさだったのかもしれない。

「恋を証明する書類なんてない。でも、嘘を暴く書類はある」 それが司法書士の仕事なんだろうな、と改めて思った。

登記に記されたのは執念かそれとも優しさか

結局、登記簿は何も語らない。ただ、そこに記された名義が、何かを守ったり、壊したりするだけだ。

今回の件で、愛を証明するには、書類よりも記憶や行動の方が強いと知った。

書類はただの器。その中身をどう使うかが、人の価値なのだ。

サトウさんの一言が事件を締めくくった

「だから言ったでしょ。情じゃ勝てませんって」 サトウさんは、帰り際にそう言ってスカートの裾を払った。

「でもまぁ、たまには正義が勝つって証明も、悪くないかもですね」 その言葉に、俺は肩をすくめた。

やれやれ、、、本当に、この子は手強い。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓