気づけば息をするのも重たい朝
ここ最近、朝がしんどい。寝たはずなのにまったく疲れが取れていないし、鏡を見ても顔色が悪い。司法書士という職業柄、朝から晩まで神経を張りつめているのが原因なのかもしれない。身体というより心がずっしりと重たい。45歳、独身、地方で事務所を細々とやっていて、事務員も一人だけ。責任感が肩にのしかかってきて、まるで重りを背負って歩いているようだ。誰かと分担できればいいけど、結局、全部自分でやるしかないとわかっている。その「わかっている」がまた重たい。
目覚ましが鳴っても体が動かない
朝、目覚ましが鳴っても、反応できずに何度もスヌーズを繰り返す。布団の中で「今日こそ休んでしまおうか」と思うけれど、結局は起き上がる。でも、立ち上がるだけで精一杯で、まるで登板前のピッチャーのように気合いを入れないと動けない。昔、野球部だった頃は、朝練がつらくても仲間がいた。でも今は、たった一人で自分を奮い立たせなければいけない。なんでここまで頑張っているのか、自分でもよくわからなくなってきている。
「あと5分」が繰り返される無限ループ
目覚ましを止めて「あと5分だけ」と目をつぶる。その5分が10分になり、15分になり、気がつけば遅刻ギリギリ。こうなると、準備も食事も適当になって、出勤してからもずっとリズムが狂ったままだ。自業自得なんだけど、どうしてもこの「あと5分」がやめられない。頭では「今日は大事な相談がある」とわかっていても、身体がついてこない。まるで自分の意志と体がバラバラになっていくようで、怖くなることがある。
夢に出てくるのも仕事のトラブルばかり
最近、夢の中にまで仕事が出てくる。登記のミスを指摘されたり、クレームの電話が鳴り続けたり、ありもしない相続争いに巻き込まれたり。目が覚めて、夢だったと気づいたときには安堵するけど、そのあと実際に仕事が待っている現実が押し寄せてくる。これじゃ休まるはずもない。仕事が好きなわけでも嫌いなわけでもない。でも、逃げ場のない状態で仕事に追い詰められている気がするのだ。
ふと「このままでいいのか」と思う瞬間
書類を並べているとき、電話を取り次ぐとき、ふとした瞬間に「このままの人生でいいのか」と思ってしまう。誰かに言われたわけじゃない。でも、自分の中でずっとくすぶっていた思いが、ふと湧き上がることがある。45歳、野球部だった青春は遠く、いまの自分は事務所の机にかじりついているだけの存在。これが本当に自分の望んだ未来だったのか、わからなくなる。
書類の山に埋もれながら感じる焦燥感
法務局から戻って、机の上に積み上げられた書類を見るたびに、胸が苦しくなる。どれも大事な案件、どれも期限がある。処理を間違えれば信用を失う。でも、人手はない。任せる相手もいない。そうやって一人で処理をしながら、「自分は何のためにこれをやっているんだろう」と考え始める。若い頃は「一国一城の主」になりたかったはずなのに、今では「ひとりぼっちの小城」で悶々としている。
自分だけが取り残されている気がする
周囲の同級生たちは家族を持ち、子どもの話や老後の話をし始めている。それに比べて自分はどうだろう。昼も夜も仕事、趣味も少ない、恋愛なんてずっとご無沙汰。気づけば飲み会の誘いも減り、誰かと予定を合わせることもない。そんな自分を「自分で選んだ」とわかっていても、孤独感に打ちのめされそうになるときがある。
誰かに相談したいけど誰もいない
「ちょっと聞いてよ」と気軽に話せる人がいない。事務員さんは気を遣ってくれるけど、愚痴をこぼせるような関係ではない。仕事上の話はできても、胸の内をさらけ出せるような相手ではない。親にも心配をかけたくないし、友人とは疎遠。結局、一番話したいときに、話せる人がいないという現実に、ぐっと心が沈んでいく。
事務員さんにも気を遣って本音が言えない
唯一身近にいる存在である事務員さんには、感謝している。彼女がいなかったら回らない。でも、だからこそ余計に気を遣ってしまう。「こんな愚痴を言ったら嫌われるかな」とか「弱いところは見せられない」と思ってしまう。そうして自分を押し殺して、仮面をつけたまま一日が終わっていく。その積み重ねが、どんどん自分を疲弊させているのだと思う。
モテない男は誰に弱音を吐けばいいのか
こんなふうに日々に疲れていても、誰かに「今日しんどかった」と甘える場所がない。パートナーがいれば違うのかもしれないが、モテない。若い頃はまだ期待していた。でも、今ではもう、半ばあきらめモードである。弱音を吐ける相手がいないと、ますます殻に閉じこもっていく。孤独が習慣になり、それがまた心を蝕んでいく。
なぜか最近「辞めたい」が口癖になっている
気づけば、口から出るのは「辞めたい」「しんどい」「もう無理」。別に本気で廃業しようと思っているわけではないけど、口癖になってしまっている。でも、こうして言葉にしてしまうと、本当に限界が近づいている気がしてくる。それでも毎朝事務所に向かう自分がいる。これは意地なのか、習慣なのか、それともただの惰性なのか。
やりがいより責任の重さが勝ってきた
この仕事にはやりがいがある。それは間違いない。でも、それ以上に責任の重さがどんどんのしかかってくる。ミスは許されない、迅速な対応を求められる、そして全てが自己責任。やりがいと責任のバランスが崩れると、一気に疲労が襲ってくる。最近は、その「責任」が自分を押しつぶそうとしている。
登記のミスが許されないプレッシャー
たった一字の誤字で手続きが止まる。何日もかけて進めた案件が一つの凡ミスで台無しになる。登記は「正確」であることが絶対条件。だからこそ、どんなに疲れていても集中力を切らせないようにする。でも、年齢とともに集中力も落ちる。若い頃なら乗り越えられたことが、今は命綱のような緊張感を伴う。正直、毎日が綱渡りのようだ。
でも逃げる場所がないのもわかっている
「辞めたい」と思っても、どこに行けばいいのかがわからない。司法書士という資格がある以上、他の道を考えると急に不安になる。収入、信用、仕事のやりがい——全部を捨てて何か別のことをする勇気は、残念ながらもうない。だからこそ、「そろそろ限界かも」と感じながらも、なんとか踏ん張っている。
地元に帰っても居場所があるわけじゃない
「地元でのんびりやればいいじゃないか」と言われることもある。でも、自分の地元に戻ったところで、今の事務所のようにうまくやっていける自信はない。同級生たちはすでに家庭を持ち、地域にも根付いている。その中に今さら飛び込める気がしない。どこにいても、結局は孤独なんだと痛感する。
司法書士という肩書が足かせに思える日
司法書士としての自分を誇りに思っていた日々もあった。でも今は、その肩書が「逃げられない証拠」にも思えてしまう。この肩書がある限り、気軽に別の仕事を選ぶこともできず、まわりからも「ちゃんとしてる人」と見られてしまう。だからこそ、「限界かもしれない」と感じても、踏み出せないでいる。
それでも仕事にしがみついてしまう理由
こんなにしんどいのに、それでもこの仕事を続けてしまう自分がいる。なぜか。たぶん、どこかでまだ「この仕事を誇りたい」という思いが残っているからだと思う。お客様に感謝されたときの気持ち、困ったときに頼られる存在でいられること——それが小さな救いになっている。
お客様の「ありがとう」がまだ刺さる
依頼者に「本当に助かりました」と言われる瞬間がある。疲れた顔をしていても、あの一言だけで心が少し軽くなる。たったそれだけのことでも、また明日も頑張ってみようかと思える。たぶん、自分にとってこの言葉は薬のようなものだ。限界の淵でふらふらしていても、それだけはしっかり支えてくれる。
元野球部の意地かもしれない
最後に残るのは、昔から染みついた「最後まで投げ切る」という意地なのかもしれない。野球部で鍛えられた根性は、今もどこかに残っている気がする。逃げるよりも、もう少しだけ粘ってみようと思ってしまう。そんな自分を、もう少しだけ信じてみたいと思う今日このごろ。
同じように限界を感じている人へ
この記事を読んでいる誰かも、もしかしたら今、同じように限界を感じているかもしれない。「こんなの自分だけじゃないか」と思うこともあるかもしれない。でも、たぶん違う。どこかに、あなたと同じように苦しんでいる人がいる。そして、そのことを言葉にするだけで、少しだけ楽になることもある。
愚痴は弱さじゃないと思う
愚痴をこぼすことは、決して弱さじゃない。むしろ、「限界です」と言える人の方が、よっぽど強い。ずっと我慢して、笑顔でいる方が心に毒をためてしまう。たまには吐き出していい。誰かに聞いてもらえるだけで、救われることもある。
限界を感じたら、まず立ち止まること
走り続けてばかりだと、足元が見えなくなる。だからこそ、「もう無理かも」と思ったときには、一度立ち止まってみてほしい。立ち止まって、深呼吸して、それでもまた進めるなら進めばいいし、違う道を考えてもいい。それが逃げではなく、「自分を守る選択」だと、私は思う。
それだけで何かが変わることもある
無理して頑張らなくてもいい。少し立ち止まることで、見えなかった景色が見えることもある。限界を感じたら、無理せず声をあげてほしい。そして、誰かに伝えてほしい。そんな小さな一歩が、未来の自分を救うかもしれない。