朝のコーヒーと奇妙な来客
午前9時。ようやくぬるくなった缶コーヒーに口をつけたところで、事務所のドアがきしんだ。誰かが訪ねてきた。予定はなかったはずだ。朝から雨も降っている。こんな天気に来る人間は、だいたいロクな相談を持ってこない。
「こんにちは、あの……この住所の登記を調べてほしいんです」
名刺も出さずに差し出されたのは、手書きのメモに書かれた住所。それは、町内にあるはずの住宅街の一角のものだった。
依頼者の名はアライ
名乗ったのはアライといった。30代くらいの痩せた男で、目が泳いでいる。話の要点はこうだ。「購入を考えている物件があるが、なぜか登記簿が見つからない」と。
登記簿がない?そんなはずはない。日本では不動産は必ず法務局に記録されている。それが司法書士の飯のタネでもある。
だが、念のため調べてみると――その住所、地番には何も登録されていなかった。
現地調査と錆びたポスト
午後、サトウさんとともに現地へ向かった。雨はやんでいたが、地面はぬかるんでいる。目指す住所には、たしかに家があった。瓦がずれて、壁にはひびがあるが、誰かが暮らしている気配もない。
「ここ、住んでた感じありますね」とサトウさん。玄関前には錆びたポスト、投函されたチラシは雨に濡れたまま固まっている。
不動産業者の看板もなければ、売買の張り紙もない。ただ、存在しているだけだった。
誰も知らない家
近所の住人に話を聞いてみた。ところが、「そんな家、あったっけ?」という反応がほとんどだった。
「昔は誰か住んでたかもなあ」「空き家だったかな」曖昧な記憶だけが残っている。まるでその家が、最初から“曖昧な存在”であるかのように。
「やれやれ、、、まるでミステリー漫画の設定みたいだな」俺は小声でつぶやいた。
サトウさんの冷静な推理
事務所に戻ると、サトウさんはさっそく法務局の閉鎖登記簿を請求していた。現地での手応えに何か引っかかったらしい。
数日後、届いた閉鎖登記簿には、たしかにその土地の記録があった。ただし、昭和45年で閉鎖されていた。しかも、用途が「換地前宅地」となっている。
「つまり、都市計画で住所や地番が変わったんですね。けどこの家、旧地番に建ってる。誰にも引き継がれず、取り残されたんです」
閉鎖登記簿に記された過去
登記は抹消されていても、家そのものは解体されない限り残る。紙の上では消えても、現実にはまだそこにある。
「これは……昔の“換地処分”で取り残された土地かもしれませんね」サトウさんの目が光る。
登記の“空白”は、制度の狭間にある。そこに潜むのはただの記録ミスではなく、人の意図や忘却の積み重ねだった。
過去の取引と隠された地役権
さらに古い取引記録を洗っていくと、昭和の終わりに一度、簡易な売買契約がなされた痕跡があった。だが、登記は移転されていない。
「つまり、登記されていない売買……かつてよくあった“口約束”です」
さらに土地には古い地役権が設定されていたが、それも抹消されずに取り残されている。まるで、誰かが“この土地を曖昧なままにしておきたかった”かのようだ。
夜の調査と登記官の証言
旧地番を管轄していた元登記官に連絡を取った。定年退職していたが、好意的に応じてくれた。
「あの家ね、たしかに変だったよ。誰も登記を申請しないのに、電気と水道は通っていた」
電気と水道。つまり、誰かが住んでいた。記録のない住人。彼らは何者だったのか。
古い紙台帳の片隅に
さらに法務局の紙台帳に目を通すと、端のほうに消えかかった赤インクで「要確認」とだけ書かれていた。
「要確認」――それは永遠に確認されることなく、誰かの引継ぎ書類の奥で眠っていた言葉。
不動産の記録がデジタル化される前、こうした“幽霊地番”は多く生まれたという。
真犯人の意外な目的
アライの正体は、不動産ブローカーだった。廃屋を買い叩き、手続きの隙を突いて利益を上げる連中の一人だ。
この土地も、登記簿がないからこそ狙われた。つまり、“誰のものでもない”土地を、さも正当な物件として売買しようとしていたのだ。
「法的には登記しなきゃ持ち主になれない。でも、現実には“占有”が通用してしまう」アライは笑った。
あえて記録に残さなかった理由
なぜ過去の持ち主は登記しなかったのか。それは、登記しないことで何かを守ろうとしたからだ。
相続放棄か、あるいは差し押さえ逃れか。その真相はわからない。だが今、登記をしなければまた別の誰かがこの家を“奪う”。
だからこそ、司法書士が必要になる。
事件の幕引きと登記の力
数週間後、俺は旧所有者の遠縁にたどり着いた。彼らは困惑しつつも、名義回復と登記の再設定を受け入れてくれた。
これで、この土地も正式に記録され、誰のものでもない状態から脱する。
「不動産って、目に見えるのに、誰のものでもなくなれるんですね」アライの残した言葉が耳に残る。
事務所に戻ると
夕方、事務所に戻ると、サトウさんは黙って書類をまとめていた。俺が「終わったよ」と言うと、冷静に一言。
「うっかりミスが出る前に、再登記できてよかったですね」
――まったくだ。やれやれ、、、俺がもう少しちゃんとしてれば、もっと早く終わったかもしれない。