朱肉に浮かぶ真犯人
司法書士の朝は早くない
午前九時三十分。世間ではとっくに「おはようございます」の時間帯だが、私はまだコーヒーの香りと共にパソコンの前でぼんやりしていた。
夜更かししたわけでもないが、最近眠りが浅くて困っている。年のせいか、気苦労か、いや両方かもしれない。
事務所のドアが軋む音と共に、今日も一日が静かに始まった。
サトウさんの塩対応に凍える午前十時
「おはようございます」と私が言えば、「はい」とだけ返すサトウさん。いつものことだ。
彼女が私に向ける言葉の数は一日平均で五十以下だろう。塩対応にも程がある。
だが、それが妙に心地よいのは、私がきっと、もう慣れてしまったからに違いない。
一枚の登記委任状が持ち込まれた
その日、古びた紙袋を提げた中年の男性が訪れた。名前は村井。
「父が亡くなりまして、相続登記をお願いしたいんです」そう言って差し出されたのが、手書きの委任状だった。
朱肉の香りがかすかに鼻をくすぐったが、違和感の正体にはその時まだ気づかなかった。
違和感は朱肉の色から始まった
登記委任状に押された印鑑は、少し濃すぎた。朱というよりも血のような赤。
私は数えきれないほどの書類を見てきたが、この色は珍しい。
しかも、どこかで見たような印影——その既視感が頭の片隅に引っかかった。
認印の位置が語る嘘
委任状の記載は整っていたが、印鑑の位置が微妙に左に寄っていた。
普通なら署名の真横、または下に押すものだ。これは不自然だ。
そして、それは「慣れていない人間」が無理に押した痕跡のように思えた。
依頼人の顔と押印の筆圧
「これはあなたが書かれたんですか?」
私の問いに、村井は目を伏せて「ええ、父が生前に書いたものです」と答えた。だが、筆跡と印鑑の圧が微妙に噛み合っていない。
まるでドラえもんの道具で写したような、均一な印影に私はますます疑念を深めた。
「やれやれ、、、」独り言が漏れる瞬間
午後、ひとり書類を見直していたとき、不意に「やれやれ、、、」と声が漏れた。
サザエさんのように軽快なオチで終わる日常ならどれほど楽だろう。
だが、これはそういう話じゃない。むしろ、名探偵コナンに登場する、あの「光る痕跡」を探す場面に近い。
サザエさんと違って笑って終われない
カツオがしでかした失敗に家族全員がズッコケる、あの世界のようにはいかない。
ここでは、一枚の紙に込められた嘘が、誰かの財産や未来を左右する。
そして私は、その紙の真贋を見極める、地味な役割を任された探偵でもある。
サトウさんの観察眼が示した一手
「この印影、斜めにかすれてますね」
サトウさんがそう言った。指摘された位置を見ると、確かに下部がわずかに滲んでいた。
「たぶん一度目に失敗して、二度押ししてます。朱肉のノリ方が違います」——彼女の推理は、私の直感を後押しする材料となった。
判子の押された順番と日付のねじれ
文書の日付と、その印影の押された強さ。何かがおかしい。
その日は休日だったはず。登記委任状の日付は、市役所が閉まっている日だった。
にもかかわらず、印鑑登録証明書がその日に発行されている。これはどういうことだ?
消えた印鑑登録証明書の謎
村井の提出した書類には、印鑑登録証明書が添付されていなかった。
理由を問うと、「父が亡くなった後で探したんですが、見つからなくて」とのこと。
だが、それは嘘だ。証明書がなければこの印影の正式な証拠能力はない——つまり、押し通せると思っていたのだ。
元野球部のカンが働く時
私はコピー機の前でピンときた。あの印影は、スタンプではなく印鑑コピーの可能性が高い。
甲子園を夢見てた頃、泥で汚れたグローブのシミから球種を見抜いた直感がよみがえる。
「おかしい、これ、インクの粒子がにじんでいない……コピーだ」
残された契約書の角の折れ
ふと見ると、委任状の角が不自然に折れていた。
それは、他の紙と合わせてスキャンするときにできやすい折れ目だった。
偽造の痕跡——それは、朱肉よりも明確な証拠だった。
司法書士が仕掛けた最後のトリック
私は村井に「市役所から印鑑証明を直接取り寄せました」と告げた。
そんなことはしていない。ただのハッタリだ。
彼の顔が強張った瞬間、それがすべてを物語っていた。
本人が語らぬなら印影が語る
「お父様の印鑑、保管はどうされていたんですか?」
「……すみません。僕が押しました」
ついに白状した。犯行を決めたのは紙でも印でもない、人間の心だ。私はそれを、朱肉に浮かぶわずかな歪みに見た。
そして今日も仕事は山積みである
事件は解決した。とはいえ、明日にはまた別の相談者が来る。
不動産、遺産分割、名義変更、登記の山。喜劇も悲劇も繰り返す日々。
やれやれ、、、私はコーヒーを啜りながら、明日の朱肉を思った。