彼女のカップに浮かんだ嘘
いつも通りの朝と少し甘い匂い
今朝も事務所のドアを開けると、ほんのりと甘い香りが鼻をくすぐった。ああ、またサトウさんがココアを淹れたのだろう。コーヒーよりもココア派なのは珍しいが、そこがまた彼女らしい。
俺の机の上にも紙コップが一つ置かれていて、湯気がうっすら立っていた。ありがたく一口飲んだあと、思わず独り言が漏れた。「やれやれ、、、今日もきっと面倒な一日になりそうだ」
机の上のココアと謎の来客
そう思った矢先、ドアがノックされ、一人の女性が現れた。小柄で地味な格好のその女性は、手に封筒を持っていた。封筒の中身は、父親の遺言書と古びた実印のようだった。
「父の遺言書を検認してもらいたいんです」と彼女は言う。だが、その言葉の裏には何か引っかかるものがあった。まるで、全てを説明しているようで、何かを隠しているような。
依頼内容は遺言書の検認
内容は典型的な自筆証書遺言。全文が本人の筆跡で書かれており、日付と署名、そして実印が押されている。ぱっと見は問題なさそうに思えたが、俺の中で妙な違和感が膨らんでいく。
サトウさんもそれに気づいたようで、書類を覗き込んで一言。「この印影、少し歪ですね。わざと傾けて押したみたい」彼女の観察眼にはいつも感心させられる。
不自然な印影と曖昧な記憶
たしかに、印影の下部がかすれており、かすかに角度がついている。まるで「ハンコを押した演出」をしたかのような印象を受けた。しかも、遺言書の日付が数年前というのも妙だった。
「お父様の印鑑証明書はお持ちですか?」と尋ねると、彼女は一瞬固まり、それから首を振った。やはり、何かがおかしい。この遺言は誰の意図で作られたものなのか。
サトウさんの沈黙と一枚のコピー
真夜中に光るFAXの罠
その夜、事務所に一人残っていたサトウさんからFAXが届いた。表には「謄本の写しを見てください」とだけ書かれ、次のページにはある不動産の登記簿謄本がコピーされていた。
そこには、この遺言に記された土地の名義がすでに変更されているという事実が示されていた。遺言の効力が発生する前に、すでに誰かが登記を済ませていたということになる。
元恋人と称する男の影
翌日、別の人物が来所した。「彼女の元恋人」と名乗る中年男は、俺の顔を見るなり鼻で笑った。「あの遺言書、俺が手伝って書かせたんだよ。父親の印鑑なんて簡単に押せるからさ」
男はまるで武勇伝のように偽造を語り出したが、俺は内心ゾッとしていた。だが同時に、何かが引っかかった。なぜ今になって自白まがいのことを言いに来たのか?
ハンコは誰のものか
サトウさんが調べてくれた古い住民票と印鑑登録カードの写しを見て、ようやく点と点がつながった。遺言書に使われたハンコは、たしかに父親のものだったが、登録された実印ではなかった。
それは三文判、いわゆる認印だ。つまり、正式な遺言としては無効になり得る可能性が高い。サトウさんはぼそっと言った。「これで恋も土地も、ぜんぶ嘘ってことになりますね」
登記簿に残る恋の痕跡
やれやれ、、、と呟く午後
その瞬間、何もかもがバカバカしくなって思わず天井を仰いだ。「やれやれ、、、」。書類に囲まれた人生の中で、人の欲や嘘に触れることには慣れているはずなのに、やっぱり疲れる。
誰かを想う気持ちすら、財産目当てにすり替わるのだろうか。いや、もしかしたら彼女はほんの少しだけ、父を想っていたのかもしれない。せめて、その一滴の誠実さを信じたい。
手帳に残された三つの数字
その後、サトウさんの指示で彼女の残していった手帳を確認した。ページの隅に「102 404 302」とだけメモされている。まるでパスワードか、暗号のような数字だった。
それが実は物件の部屋番号だと気づいたのは、彼女が再び事務所に現れた数日後のことだった。三つの物件はすべて、父が登記名義人になっていたが、どれもすでに転売済みだった。
二杯のココアと消えた契印
最後の手がかりは、彼女が帰ったあとに残った二つの紙コップだった。一つは俺の机に、もう一つは応接室のゴミ箱の中に。サトウさんがゴミ箱から発見したのは、契印の印影が消された書類だった。
インクを水でにじませたような跡があり、偶然にもココアが原因だったようだ。偶然か、それとも彼女なりの別れの演出だったのか。もはや、真意を知る術はない。
最後の一手と小さな嘘の代償
サトウさんの読みと私の直感
今回の件は、最終的に警察沙汰にはならなかった。遺言の無効が確定し、不正な登記も抹消された。サトウさんの冷静な分析と、俺の野球で鍛えた勘が意外と役に立った気がする。
「うっかり者のくせに、最後だけ決めるのは得意ですね」とサトウさんが皮肉を言う。きっと褒めてくれているのだろう。たぶん。
恋の予感は真実だったのか
事務所に再び平穏が戻った。だけど、あの日のあのココアの味だけは、妙に心に残っている。あれが本物の恋だったのか、単なる錯覚だったのかは、今もわからないままだ。
俺はコップを見つめ、ふと呟いた。「やっぱり、甘すぎるのは苦手だな」。そして今日も、次の相談者を迎える準備を始めた。