左手の指輪は嘘をつく

左手の指輪は嘘をつく

登記申請の朝に訪れた依頼人

その男は、朝の雨音とともにやってきた。事務所のドアを開ける音が妙に重たく感じられたのは、気のせいではなかっただろう。
黒いスーツに身を包み、どこか所在なげな目つき。なのに左手の薬指だけが、やけに光を放っていた。
申請書類を握りしめ、彼は言った。「この登記、急いでお願いしたいんです」。

左手の薬指に光る違和感

一見して高そうな指輪だった。ゴールドとプラチナが編まれたようなデザイン。
だが、気になったのはそこではない。その指輪があまりにも“主張しすぎている”ように思えたのだ。
まるで、何かを隠すために敢えて見せているような――そんな不自然さを感じた。

提出された遺産分割協議書の違和感

書類には、父親の遺産を相続する旨が記されていた。相続人は一人、依頼人ただひとり。
協議書には確かに署名捺印が揃っていたが、どうにも違和感があった。
“家族の合意”という言葉が、紙の上では軽く流されすぎていたのだ。

サトウさんの冷静な観察眼

私が首をかしげていると、例の塩対応の彼女が声を発した。
「これ、戸籍をもう一度ちゃんと洗った方がいいですよ。女きょうだいの記録、なんかおかしい」
まるで冷蔵庫の期限切れのプリンでも指摘するかのように、サトウさんは言った。

戸籍に浮かんだひとつのズレ

さっそく戸籍を取り直してみると、確かに奇妙な点が見つかった。
依頼人が長男と名乗っていたが、実際には姉がひとり。過去に婚姻して姓を変えたため、除籍されていたのだ。
その存在が、今回の相続協議書から完全に“消されていた”。

私が見逃した書式の盲点

それだけではなかった。協議書の形式も、見覚えのないテンプレートだった。
Wordの自動生成フォーマットのような微妙なズレがあり、通常の登記書式とは異なっていた。
「もしかしてこれは、、、偽造か?」 頭の奥がじんわりと熱くなる感覚がした。

故人の直筆署名が残した謎

念のため、故人の過去の署名と照合することにした。
昔の委任状を探し出し、比較してみると――明らかに筆圧と癖が違っていた。
その瞬間、背中に冷たい汗が流れた。「これは、故人が書いた署名じゃない」

やれやれ、、、筆跡鑑定までやる羽目に

司法書士が筆跡鑑定までするとは思っていなかった。
「ルパンの峰不二子でもここまで器用にはやらないだろうな」と自嘲気味に呟きつつ、私なりに分析を進めた。
やれやれ、、、どうしてこうなるのか、今日も昼メシにありつけそうもない。

家族構成と指輪の位置の矛盾

もうひとつの矛盾は、あの指輪だった。依頼人は右利きだと言っていた。
なのに、指輪は左手の薬指。通常、左手の薬指に指輪をはめるのは“既婚者”か、“偽装の既婚者”だけだ。
しかもそのサイズ感が妙にきつそうで、他人のもののようにも見えた。

元野球部の勘が導く真実

何かを思い出しかけた。高校時代、左打者がバットを構えるときの微妙な動き。
あの依頼人が書類を書くとき、左肩が先に動いたような気がした。
つまり彼は――「本当は左利きなんじゃないか?」

左利きのはずの彼が指輪を右手に

だとすれば、なぜ左手に指輪をはめた? 利き手ではない手に違和感なく装着しているということは、日常的にしていたわけではない。
誰かの遺品を“借りた”可能性がある。たとえば――姉の夫の指輪を。
指輪は、その存在そのものが“本人”を示す証拠となることもあるのだ。

証書の余白に残された指の痕跡

最後に、協議書のコピーを指でこすってみた。ほんの僅かだが、インクのにじみが指紋のように残っていた。
それを照合すると――依頼人とされていた人物と、署名者が別人である可能性が高まった。
つまり、姉がすでに亡くなっており、それを伏せて登記を通そうとしていたのだ。

司法書士として最後にできること

私はその日のうちに、家庭裁判所に報告書を提出した。
相続放棄の確認と、相続人不在による特別代理人の選任を求めて。
偽造が疑われる場合、司法書士としてできることは限られている。しかし、それでも動かなければならない。

依頼人の動揺と静かな結末

依頼人は、事務所に戻ってこなかった。きっとすべてを悟っていたのだろう。
その左手の指輪だけが、何も語らず、光っていた。
そして私は、未使用の申請書とコーヒーのカップを眺めながら、ただ静かにため息をついた。

サトウさんの塩対応と温かさ

「で、今日のお昼はどうするんですか。もう14時ですけど?」
時計を指さすサトウさんの視線は、相変わらず冷たい。だが、なぜかそれが心地よかった。
「カツ丼、、、いや、やっぱりサバ味噌で」そんな私に、彼女は小さく笑ったように見えた。

「無駄な感情移入はやめてください」

「それ、私が前に言った言葉ですから」
呟いた私に、サトウさんは即座に返してきた。まるで台詞の掛け合いのように。
「でもまあ、少しは役に立ちましたね」とだけ言い残して、彼女はプリンタの前に戻っていった。

それでも残る温かいコーヒーの味

湯気の立つコーヒーのカップを口に運ぶ。今日も、いつもの味だ。
事件は解決しなかった。正確には“止めた”だけ。でも、それが私の役目なのだろう。
やれやれ、、、こんな結末じゃ、ルパン三世も笑ってしまうかもしれない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓