朝の静けさと一通の封筒
不自然な差出人名
朝の事務所は静かだった。封筒が一通、机の上にぽつんと置かれている。差出人は「山崎ミチル」――どこかで聞いたような名前だが、記憶にはひっかからない。
サトウさんが無言で封を切る。いつもの無駄のない手つき。僕はその横でまだコーヒーも飲んでいない口を開き、「変な名前だな」とぼやく。始業からすでにやる気がない。
だが、その中身は、ただの依頼書ではなかった。
記載内容に潜む違和感
依頼書には、ある土地の登記の移転申請の件が記載されていた。だが、明らかにおかしい。添付された契約書には署名があるのに、なぜか押印だけが抜けている。
「これじゃ、登記はできませんね」とサトウさん。僕は書類をひっくり返すが、どこを探しても印鑑はない。やれやれ、、、朝からまた厄介な仕事が舞い込んできたようだ。
まるで波平が忘れた定期券みたいに、何か大事なものがぽっかり抜けている。
依頼人は震える声の女性
「この登記は止めてください」
昼前、ひとりの女性が訪れた。細身のスーツ、伏し目がちな眼差し、名を名乗るより先に口にしたのは「この登記、やっぱり止めてください」だった。
一瞬、僕もサトウさんも顔を見合わせる。何かを隠しているのは明らかだった。理由を聞くと、彼女は小さな声で「…事情があるんです」とだけ言った。
その声には、法では割り切れない何かがにじんでいた。
涙の理由と伏せられた関係性
女性は語らなかったが、彼女の目の動き、ため息のリズム、そして指先の震えが語っていた。その登記には、個人的な感情が深く絡んでいる。
契約相手が誰なのかと問えば、「昔の恋人です」とようやく答えた。なるほど、話が見えてきた。印鑑が押せなかったのは、法的問題じゃない。心の問題だ。
それはたぶん、あの印鑑を押した瞬間、何かが本当に終わるからなのだろう。
未押印の契約書
司法書士としての違和感
僕はプロとして、押印のない契約書など何度も見てきた。だが、今回のそれには妙な感触があった。全体はきちんと整っている。にもかかわらず、ぽっかりとした空白。
あえて押さなかった、という意志のようなものを感じた。これは過失ではない。意思表示の否定。つまり拒絶だ。
でも、拒絶の理由が、登記という形で僕の前に現れるのは皮肉なことだった。
サトウさんの冷静な分析
「これ、相手方の印鑑もないですよね」サトウさんが言った。確かにそうだ。両方とも、印影が抜けている。まるで、ふたりの間の約束を否定するかのように。
「これは、契約を成立させたくなかったんですよ。どちらも」冷徹な分析。でも、その冷たさの奥に、何かを知っているような彼女の視線があった。
まるで、『キャッツアイ』の瞳のように鋭く、何かを見抜いていた。
過去の登記履歴を探る
表れたもう一つの住所
僕は地元法務局で過去の登記を調べた。すると、同じ人物が数年前に所有していた別の土地が浮かび上がってきた。所有者名には「山崎ミチル」と、もうひとつの名前。
「安藤圭一」――彼がその元恋人なのだろうか。その土地も今は売却済みになっている。
まるで記憶を消すように、過去の登記が整理されていた。
消された名義人の痕跡
不思議なのは、二人の関係を証明するような登記が一切残っていないことだった。共有名義もなければ、地役権すらない。まるで最初から存在しなかったように。
「愛の証明は登記できないんですよ」と自分でつぶやいて、少し笑った。サトウさんには聞かれていたが、見事にスルーされた。
僕はペンを回しながら、ふたりの痕跡を心の登記簿に記録した。
古い登記簿が語るもの
平成の恋と令和の現実
調べた限り、二人は一度も法律上の関係にはなっていない。だが、土地の購入時期と売却時期はぴったり重なっていた。それは、共に暮らした時間の名残だった。
契約書に印鑑がなかったのは、今の自分たちにはもう何も証明するものがないと悟っていたからだろう。悲しいけど、それも一つの終わりの形だ。
まるで「サザエさん」が毎週リセットされるように、彼らの関係もまた、続かない。
深夜の突き合わせ
印鑑が語る真実
サトウさんがスキャンした画像に気づいた。「依頼人、実印は持っていたみたいです。過去の登記書類に使われてました」それを見て、僕は確信した。
押せなかったのではない。押さなかったのだ。印鑑は、彼女にとって別れの引き金だった。
それに気づいた僕は、あえて彼女にこう言った。「もう、この件は受けません」
やれやれ、、、またかという顔のサトウさん
「情に流されました?」サトウさんの声は冷たいが、どこか優しい。僕は「やれやれ、、、」と頭を掻いた。いつものことだ。最後には感情が勝ってしまう。
「でもまあ、それでいいと思いますよ。人間だもの」その言葉が意外だった。
僕は思わず、彼女に少しだけ惚れそうになった。ほんの少しだけだ。
愛と契約と法の隙間
名義変更できなかった真の理由
翌日、彼女から届いた感謝の手紙には、簡潔な言葉だけが書かれていた。「あの人に、印鑑を押させなくてよかった」それだけで、すべてがわかった気がした。
法は白黒をつけるが、心にはグレーが必要だ。僕たちの仕事は、グレーをどう扱うかだ。
それを、あの未押印の書類は教えてくれたのかもしれない。
朝日とともに始まる提出
僕が押すべきだったのは印鑑か、それとも、、、
新しい朝が来た。未提出の書類が山積みになっている。それを前に、僕はコーヒーをすする。
押すべき印鑑と、押すべき気持ちは、たぶん違うところにある。僕の前の依頼人たちも、それに気づいていたのだろう。
法の正しさと、人の正しさ。その隙間で僕は、今日も悩む。
サトウさんの一言が胸に刺さる
「さっさと仕事してください」サトウさんの冷たい声が、僕を現実に戻す。
やれやれ、、、と思いながらも、書類に手を伸ばす。今日も忙しい一日が始まる。
でも、どこか少しだけ、昨日より胸が軽かった。
事件の終わりに
依頼人の未来と消えた登記申請
彼女はもう来ないだろう。登記申請も、もちろん提出されなかった。それでよかったのだと思う。
人生には、押さなくてもよい印鑑がある。そのことを、僕は忘れない。
事務所の扉が、カラカラと開いた。また新たな依頼人。次の物語が、始まろうとしていた。
今日もまた書類は積まれる
コーヒーと愚痴と、少しの余韻
ああ、今日もまた、書類が減らない。やる気は昨日に置いてきた。
だけど、不思議と悪くない気分だった。恋と法の隙間に、少しだけ人の温度が残っていたから。
そして僕は、またうっかりと、大事なハンコをどこかに置き忘れた。